人生は謎! 老いることもまた大きな謎  映画「長いお別れ」

失っていく記憶にではなく、人生に長い別れを告げる「ロンググッドバイ」は老いることで得るもうひとつの豊かな人生の始まり

 9月9日、映画「長いお別れ」を見ました。
 この映画は「湯を沸かすほどの熱い愛」が日本アカデミー賞ほか多数の映画賞を受賞するなど高い評価を獲得した中野量太監督が、中島京子の小説「長いお別れ」を原作に映画化し、2019年に公開された作品です。
 認知症と診断され、記憶を失っていく父と家族が過ごした7年間の日々を、ユーモアを交えながら愛おしく描かれています。
 父・昇平の70歳の誕生日で久しぶりに集まった娘たちは、厳格な父が認知症になったという事実を告げられます。日に日に記憶を失っていく昇平の様子に戸惑いながらも、そんな昇平と向き合うことで、おのおのが自分自身を見つめなおしていくことになります。
 一家の次女で父親から教師になることを望まれていたのですが、調理の道で悪戦苦闘しながら自分の店を持つ目標を持つ芙美役を蒼井優、アメリカに移住し海洋生物学者の夫と一人息子と暮らし、息子の不登校に思い悩む長女・麻里役を竹内結子、夫を献身的に介護する母・曜子役を松原智恵子が務め、かつて中学校の校長を務め、認知症を患いながらも毅然と生きる父・昇平を山崎努が演じました。
 主催が能勢町福祉部健康づくり課包括支援センターで、認知症普及啓発映画上映会と聞けば、どうしても自分が認知症になったらと不安になったり、一方で介護の担い手になる大変さを思い図る心持ちでこの映画を見てしまうひともおられるかも知れません。
 しかしながら、当事者の尊厳を傷つけない接し方やサービスをめざす行政やボランティアのひとたちが「だいじょうぶ」と呼びかけ、福祉サービスの情報を知らせるための試みの1つとして、この映画上映は大きな役割を果たしたことでしょう。

どぶねずみのように美しい人生の宝物

 障害を持つひとたちと友だちになれたことで大きく豊かになったわたしの人生を振り返ると、介護を担うひとたちよりもずっと大変な当事者のひとたちと暮らしたことから得たものは、「心やさしさ」とか「人権」とか「多様性」などの社会的な学びとはちがうものでした。
 それはもっと直接的で愉快で切なくてうれしくて悲しくて、ほんとうに根拠も何もない明るい未来や手をつなぐ勇気、みんないとおしくてどこがわるいと居直れる楽しさでした。
 ブルーハーツの歌ではないですが「どぶねずみのように美しい」日常、予想もしなかった現実に右往左往するおかしさ、ひとりの人間にではなくお互いを拍手しあうヒーローや権力者、英雄を必要としない集団…。もし彼女彼たちと出会えなったらなんとさびしい人生だったとつくづく思うのです。
 わたしにとってそれはほんとうに人生を変えた「かくめい」で、「たった一粒のなみだからはじまるかくめい」という果てしない夢でした。
 高齢者や障害者の問題を綴った数々の映画の中で、一生懸命介護するひとたちの姿にではなく、時には悲惨と言われる状況にあるとんでもないおかしさ、必死に「頑張る」現場から少し離れた視点からあぶりだされる滑稽でほろ苦く甘酸っぱい人生のひとかけらに感動します。
 「長いお別れ」にはそんな宝物がいっぱい隠れていました。
 なんといっても、わたしの大好きな山崎務が演じる昇平の毅然とした姿と表情、発する言葉が素晴らしく、しかも認知症になってから亡くなる7年の時を彼らしく見事に生き抜いたことに尊敬しかありません。そして、彼にとっては認知症で記憶をなくしていくだけの7年ではなく、「ロング・グッドバイ」とこれまでの自分の人生に長い別れを告げながら、生き惑う娘たちに「だいじょうぶ、自分らしく生きなさい」と勇気を届ける豊かな時間であったのではないかと思うのです。
 実際、娘たちは父親を頼り、悩み事を打ち明けます。二女の芙美が仕事の上でもプライベートでも思うようにいかず、「ダメになっちゃった。繋がらないって切ないね」と嘆くと、「まぁそう、くりまるな」と謎の言葉を投げます。芙美が「くりまっちゃうよ」と投げ返すと、「ゆーっとするんだな」と芙美を励ますのでした。
 夫との心のすれ違いと息子の崇の不登校に悩みながら、自分自身が英語にもなじめず、遠く離れた両親への思いだけが募る長女の麻里は、パソコンでつながる病室の父親に助けを求めます。そのまま麻里がいなくなった部屋に崇が帰り、ふとパソコンをのぞくとまだ通信がつながっていて、病室の昇平が孫を見つめながら「よおっ」というように右手を上げると、孫もまた手を挙げます。
 このシーンはラストシーンで崇が学校の校長に亡くなった昇平の話を終えた時、校長が「アメリカでは認知症をロンググッドバイと言います」と告げ、静かに右手を上げ、崇も手を挙げる場面とつながっています。それは昇平に自分らしく生きろという励ましで、時も場所も違いますが、昇平と同じように校長もまたおそらく学校をやめる崇に「君なら大丈夫」と励ましたのでしょう。
 そして、妻の陽子は一生懸命夫の介護をする昔気質の「嫁」と思われがちですが、昇平が生家に行ったことで記憶が独身時代に戻り、帰りの電車で「そろそろ僕の両親に曜子さんを正式に紹介したい」とプロポーズした時の陽子はほんとうにうれしくて、思わず涙を浮かべ「はい」と返事をする時の少女のような瑞々しさが印象的でした。

だいじょうぶ、人間のすぐれているところは忘れることができること

 この映画を認知症の大変さと心優しい家族の物語としてみると、それは少しちがうとわたしは思います。「ロンググッドバイ」とは少しずつ失っていく記憶に対してではなく、自分の人生とまわりの人たちとの長い別れの言葉、自分のまわりのひとりひとりの人生にかなう限りのエールを送るさよならの言葉で、老いることで得られるもうひとつの豊かな人生の始まりの言葉だったのではないでしょうか。
 崇が校長に別れを告げた後、ひらひらと落ちてきた木の葉を拾い、祖父が本のしおりにしていたことを思い出し、ポケットに入れるところで終わるこの映画は、世代を越えた愛と友情と希望の物語でした。
 ずいぶん前に脚本家の山田太一が「人間がコンピューターより優れている所は忘れることができることです」といった言葉や、「迷惑をかけてはいけないという常識が障害を持つひとを縛っている。迷惑をかけてもいいんじゃないか」とドラマの登場人物に言わせた言葉を思い出します。
 人生は謎! 老いることもまた大きな謎なんだと、あらためて思いました。