共に生きるすべてのひとの希望を耕すために。阪神淡路大震災の教訓

阪神淡路大震災から26年が経ちました。大爆発するコロナ禍の中で迎える1月17日、誰もが様々な想いで迎えることになりました。
いのちの儚さといのちの強さ、そして、非情な社会の矛盾やもろさとともに助け合うことの大切さを非日常の中で経験し、あの日からまだ止まったままの時とまた動き始めた時…、2つの時のはざまで日本社会も世界も、そしてわたしたちも簡単に明るい未来を夢見ることができないまま、今に至っていると感じます。
わたしは当時、箕面の豊能障害者労働センターで働いていて、被災した障害者の救援活動の救援物資ターミナルとして全国から集まってくる救援物資を被災地に届けるための事務をしていました。地震から一週間後、被災地に届けてくれていた人の助手で被災地に物資を届けに行きました。
阪急王子駅の近くで一軒だけ開いていた大衆食堂に入りました。食堂はところどころ水が落ちてきましたが満席で、豚汁と漬物とご飯があればごちそうでした。
高いビルがいつ崩れてもおかしくないと思うほど斜めになっていて、まっすぐな道もゆがんでいて平衡感覚がなくなりました。
灘に入ると、家々の屋根だけが残り、一面ががれきの荒野で、その下にうずもれたかけがえのない命の声なき叫びと、生きた証が煙となって足元をもつらせたあの時の風景は、街がいくらきれいに見繕いをすませた今もその後ろ側に残されています。
わたしたちはいくつかの救援拠点に物資を下した後、須磨の一軒のお宅にバザー用品を獲りに行きました。わたしたちは救援物資のターミナルとともに、3月には救援バザーをすることになっていました。機関紙の読者から電話がかかってきて「わたしは避難所にいるけれど、家の外に置いておくからバザー用品をついでに取りにきてほしい」と言われていたのでした。地震直後に交わす会話は「生きとった?」で始まり、「家も壊れ、これからどうしたらいいかわからへんけど、命だけは助かったわ」で終わるということでした。
そして、「棚の上からいっぱい物が落ちてきて、もう何もいらん。あんたらが神戸の障害者の救援バザーをすると知って、いまはここでバザーなんて無理やけどあんたらの地域で開いてくれて、神戸の障害者を助けたってな」と言われました。
実のところ、わたしたちの事務所には連日山になるほどのバザー用品が宅配便で送られてきましたが、その中には送り主の住所が被災地各地の避難所になっていることもたくさんありました。そして、送られてきたバザー用品に添えて、大切なひとをなくしたひとからも「こんな時こそ助け合いや」と、わたしたちを励ます手紙が入っていました。
わたしたちは救援活動を通じて、被災地のひとびとからも共に生きる勇気を学びました。箕面で開いた「共に生きる、すべてのひとの希望をたがやすバザー」は100人ほどのボランティアの人たちに助けられ、救援金を届けることができたのでした。

しかしながら1995年を今振り返ると、阪神淡路大震災と4月に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件によって、日本社会が大きく変わった年だと思います。
ボランテイア元年と言われるように、「助け合い」や「共に生きること」や「市民の力」が社会をささえ、変えていく始まりの年であったことは間違いないのでしょうが、一方で今の鬱屈した社会へとつながる道もまた、この年からはじまったように思うのです。
1995年はバブル崩壊後、金融機関の不良債権問題など、それまでの高度経済成長の夢を捨てられないまま少しずつ薄暗くなっていく日本社会への不安が渦巻きはじめていました。その中で起きた大災害と大事件は、それまでの経済成長と重なってみえた戦後民主主義のもとで、「世界一の経済大国と世界一安全な国」が転落していく始まりだったのではないでしょうか。
新自由主義によって社会の基礎的な富は私有化され、社会保障など公的な安心が削られていく中で、個人も国も助け合うことよりも自分の身は自分で守る自己責任と国の防衛が前面に踊り出る社会に変わっていきました。助け合うことや多様な人々が共に生きる力と、自己責任を求める大きな力という二つの力がわたしたちを引き裂き、社会の分断が広がっていったのだとわたしは思います。
それから16年後の東日本大震災でこの2つの力は共に大きくなりながら時にはぶつかりながらも住み分けが進み、社会の分断はより厳しいものになりました。
ここでは今もまだたくさんのひとびとを苦しめながら、それでも戦後の国策としてきた原子力至上主義を守り、貫こうとする成長神話のプレイヤーである国や企業と、その神話にゆがめられた社会の深淵に落ち込んだわたしたちの悲鳴が共存しながらグローバルな荒野を駆け巡りました。
そして今、世界で200万人を越え、これからもどれだけの命が犠牲になるのかわからないコロナショックは、わたしたちの社会の脆弱さを断罪する審判を下しました。
ここまでの歴史の中で何度も警告を発せられても止まらない成長への欲望、日本でも保健、医療、教育、福祉の公的サービスを異常なまでに攻撃し、規制緩和と民間委託と徹底的に私有化し、「万が一」への施策を無駄としてコスト削減し、AI技術などイノベーションによる社会のDX化によって成長神話の引き延ばしを図ってきた結果が医療体制の崩壊を招いたことは専門家に聞くまでもないでしょう。
わたしたちは長い間続いた分断の道を軌道変換し、ひとつの道へとつながることができるかも知れない、最後のチャンスの現場にいるのだと思います。気候危機とコロナショックと世界中の飢餓と個人を幽閉する国家が、たった一人のいのちなど調査報告の「1」にも満たないと通り過ぎようとする時、わたしたちは阪神淡路大震災で学んだもう一つの道、「助け合い」と「共に生きる勇気をたがやす」道を進んでいきたいと思うのです。

ソウル・フラワー・ユニオン「満月の夕べ」
被災障害者支援「ゆめ風基金」の活動を訴える最初の拠点が長田神社でした。関西を中心に障害者の呼びかけに永六輔さんも小室等も、そしてソウル・フラワー・ユニオン(モノノケサミット)も長田神社に集まってくださいました。

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