「坂の上の雲」から懸命に坂を下ろう

1月8日の朝日新聞に興味深い記事が掲載されていました。一面の特集記事「エダノミクス VS.マエハラミクス」で、見出しに「経済成長、見切るか追及か」とあります。レーガノミクスが有名なように、何々ミクスとはいくつかの政策を組み合わせることでマクロ経済政策の目標を実現することと言っていいのでしょうか、その意味でエダノミクスとは枝野幸男の経済政策、マエハラノミクスとは前原誠司の経済政策と言えるでしょう。 やや漫画的にというか図式的ですが、その分興味を引く内容でした。
経済政策といえば小泉政権の竹中平蔵が中心となって日本型の新自由主義、市場原理主義をすすめたことが思い出されます。「既得権にぶら下がって生き延びている企業は退場してもらっていい、グローバリズムの嵐に耐え、失われた10年を取り戻し、新たな成長を実現するために構造改革が必要だ」と彼らは言いました。
そして、具体的に彼らがすすめた政策は、派遣労働者市場の規制緩和、郵政民営化など公的部門への民間企業の参加、そして「すべての政策に聖域はない」と社会保障、福祉施策の見直しをすすめました。もっとも、小泉政権の福祉施策はその直前に施行された社会福祉基礎構造改革に基づいてされたのですが、「改革なくして成長なし」とか「国民全員がいたみを分け合わないと日本は再生できない」とか、国民の多くがマインドコントロールされる言葉の魔力で、数多くあった批判を呑み込んでしまったのでした。
そしていま、特に非正規雇用の労働者の急増や、製造企業の海外移転による国内製造部門の廃止や縮小、規制緩和によって生産性が低いと言われる産業や企業の撤退などによる雇用の悪化や所得格差が社会問題になっています。
竹中平蔵さんたちは「それらの問題は改革が中途で止まったために起こってしまったのであって、そのままもっと先まで実行していたらグローバルな市場で通用する新たな成長が実現し、その結果雇用市場も社会保障もよくなっていた」と主張されています。
わたしは小泉政権時、豊能障害者労働センターに在籍していましたが、小泉政権の福祉施策が福祉予算を削減し、福祉を切り捨てると言って反対したわけではありません。
豊能障害者労働センターの設立時とほぼ同じく誕生したレーガン政権が打ち出した経済政策であるレーガノミクスは、いわゆる「小さな政府」政策で福祉予算の削減し、主に富裕層への減税、規制を緩和し投資を促進するなど、経済活動を自由な市場にゆだねると言う市場原理主義、新自由主義を掲げたものでした。そこでは「機会の平等」といわれるようにスタートを平等にしておけば、それ以後は本人、あるいは企業の自己責任であって「結果の不平等」があってもやむをえないという政策でもありました。
小泉政権が進めた政策は20年遅れのレーガノミクスのもので、当時すでに新自由主義や市場原理主義の行き詰まりを指摘するひとたちもいました。

障害者の問題でいえば、わたしは当時も今も「大きな政府」は福祉が充実させ、「小さな政府」が福祉を切り捨てるという議論にどうしてもなじめない気持ちがあります。わたしはそれよりも、そのどちらの主張においても福祉施策の対象となる障害者を「福祉予算を消費するひと」としかとらえていないことに失望します。なぜならどちらの場合も障害者を働く場から排除していることには変わりがなく、富の再分配の量やあり方で対立しているにすぎず、その前提として経済成長が不可欠であるとしている点でも変りがないと思うのです。
わたしはこのブログで以前、稲葉振一郎と立岩真也の対談本について書いた時に、「機会の平等」と「結果の平等」に加えて「参加の平等」を訴えましたが、本当は平等という言葉は適切ではなく、本来の働く場や暮しの場、それをつつむ社会に障害者も参加したいと思っているだけではなく、障害者の参加がこの社会の未来に必要であると思っています。
それはこの社会や職場の構成員にさまざまなひとが参加し、知恵を出しあい、助け合うことが必要であるだけでなく、高度経済成長期にあたりまえとされてきた高利潤の産業、輸出を中心に付加価値が高く生産性の高い産業を育て、そうでない産業は滅びるにまかせ、助成金や補助金でまかなうやり方ではだめだということです。グローバル化で生産性を求める企業は海外に出て行き、その富はもう国内には帰ってきません。
それならば、国内にいるわたしたちは取り残されるのではなく、グローバリズムの悪夢からめざめ、成長神話から解放されて、顔の見えるコミニュティが生みだす手ざわりのある市場をつくりだし、お金をゆっくりとまわしていくことができないのでしょうか。
この市場では生産者と消費者ははっきりと分かれてはいず、食べ物の地産地消はもとより、たとえば障害のあるひともないひとも共に働き共に給料を分け合って暮らしていけるコミュニティがあれば、そんなにたくさんのお金を必要としないかも知れないのです。
つまり、社会保障の対象となるひとの所得や働く場が確保できれば、経済成長による分配すべき富は減ったとしても、富の再分配としての社会保障費もまた少なくていいのです。
数字だけ見ていると縮小していくようで活気のない社会のように見えますか、実はより多くのひとたち、障害者もふくめたさまざまな特徴、個性を持った人たちが社会に参加でき、ひととひととが助け合える活気にあふれた社会だと思うのです。

朝日新聞の特集記事に戻れば、わたしはエダノミクスに依って立つことになります。記事にありますように、経済成長を至上としない経済産業相もめずらしいことですが、彼が司馬遼太郎の「坂の上の雲」になぞらえて、「坂の上の雲にたどり着き、もっと先に雲はないかとこの20年探してきたが、もうなかった」、「大企業中心の輸出型から、医療や農業など内需型へ産業を移す。なにより大切なのは働く場だ。より成熟した社会に向けて懸命に坂を下ろう」と言う時、わたしは決して彼が所属している民主党を支持しているわけではありませんが、原発事故の時に数多くのバッシングを受けたこの政治家がこの考え方をどのようにより理論展開し、実現していくのか、見守りたいと思います。
そして、このことは政治家がどうするのかではなく、わたしたちがどんな社会を望むのかを問う問題なのだと思います。

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