天国は無い ただ空があるだけ

豊能障害者労働センター30年ストーリーNO.7

天国は無い ただ空があるだけ
国境も無い ただ地球があるだけ
みんながそう思えば 簡単なことさ
(イマジン 訳詞/忌野清志郎)

1993年11月1日、わたしたちは坊島の事務所に拠点を移しました。同じ箕面市内とはいえ、事務所の移転は、いままで歩いて来ていたひとが自転車に乗ったり、またその逆があったり、視覚障害者の杉山幸子さんはガイドヘルパーの方と新しい道をおぼえたりと、障害者にとっては大事件でした。
それでもわたしたちはすこしずつ新しい出会いをつくっていきました。

1994年、それまでの数年箕面市と論議を深めてきた箕面市障害者事業所制度がはじまりました。
一般企業から排除され、保護訓練指導される枠組みによる授産施設か障害者作業所、デイサービス、在宅福祉の消費者としか位置づけられない職業的重度といわれる障害者の雇用の場(社会的雇用の場)に対する助成制度は、全国で初めの画期的な制度として注目され、後に滋賀県などの制度につながっていきました。
しかしながら、一般企業に就労を拒まれるなら「八百屋でもしょうか」という2人の青年から出発したわたしたちは、当初から自ら事業を起こしていく集団でした。
障害者事業所に社会的起業までの展望を持っていたわたしたちと、一般就労(一般企業への就労)が理想で、それができないひとに提供する次善の雇用の場とする箕面市とのずれは当初からありましたが、現在はより鮮明になっています。
それでも、まだ身体障害者の福祉的就労の場、授産施設がなかった1982年から、障害者の手に乗るお金をつくりだすために悪戦苦闘してきた12年、箕面市ではじめて24時間介護を必要とする障害者の自立生活を公的介護保障なしで実現し、あるひとは新婚生活のさ中、月に15日も泊まり介護をしながらささえてきたこの12年間という長い時をへて、ようやくわたしたちの活動が(箕面市のみですが)はじめて公的な活動団体と認知されたことを、わたしたちは運動の果実としました。

1995年1月17日、あの阪神淡路大震災を境に日本の社会のあり方がそうだったように、わたしたちの活動もまた大きく変わりました。
幸い、わたしたちの地域は活断層が寸前で止まり、大きなの被害はなく、事務所も無事でした。しかしながら朝のニュースは、わたしたちの想像をこえた事態が同時多発的に起こっていることを刻々伝えていました。
その最中にもテレビの中が大きくゆれ、それを見るわたしたちもまた大きな余震に震えていました。プレハブの事務所は余震の揺れとともに、窓ガラスやかべが奇妙な叫び声を上げるのでした。
あの日の前まで、わたしたちは春のバザーの準備をしていました。
おたがいの無事を確認できたものの、「今度はこことちがうか」と頻繁に寄せてくる余震にふるえていました。「仕事なんかできへん」と誰かがいいました。
その時、一枚のFAXが届きました。何度も何度もFAXの機械を通ってきたために、文字はつぶれてしまって細かいところはわからないけれど、そこにはけっしてテレビではわからなかった、被災地の障害者の安否と被害のひどさが伝わってきました。
「バザーやって、売り上げみんな被災地の障害者に持っていこ」。
しばらくして、誰かが言いました。わたしたちは被災障害者救援バザーを開くことにしました。
それと同時に、全国の障害者団体のネットワークから「障害者救援本部」が結成され、豊能障害者労働センター機関紙・積木79号で基金のお願いをしました。
救援本部の物資ターミナルも引き受けたわたしたちは、被災地に救援物資を運びました。
バザーは、新しい事務所のまわりの市民をふくめて100人のボランティアのひとたちに応援していただき、約7000人の方々が参加してくださいました。 野外ステージでは、新谷のり子さんもかけつけてくださいました。
400万円の売り上げとなり、よびかけた救援金と合わせて1000万円を救援本部を通して被災地の障害者に届けることができました。
4月には、「被災障害者支援ゆめ・風基金」が立ち上がり、わたしたちは7月にゆめ・風基金呼びかけ人代表の永六輔さんの講演会を開きました。
わたしたちはあの寒い朝以後、2つの時を生きているのだと思います。止まってしまった時と激しく刻み始めた時。2つの時がひとつになるのには、もっと多くの時を必要としているのだと思います。

救援活動が一区切りした後も、わたしたちのもとには全国からバザー用品が送られてきました。「今度はあなた方の活動に生かしてくれ。」という言葉とともに寄せられるバザー用品の山を前に、リサイクルショップを開くことにしました。
今では箕面市内に5つのお店を運営し、障害者スタッフが切り盛りすることで職種の開拓が進んだ他、バザーと合わせたリサイクル事業は豊能障害者労働センターの大きな柱に成長しました。
また1998年には小泉さんを中心とする障害者スタッフのデザインによるメッセージアートTシャツ、雑貨の通信販売をはじめ、カレンダーの販売をふくめてもうひとつの大きな事業になりました。

こうして、わたしたちの1990年代は終わろうとしていました。ふりかえれば20世紀の世界はなんとたくさんのなみだと血が流れつづけたことでしょう。
わたしたちは、血と悲しみと怒りと恨みの歴史とさよならできないのかと無力感におそわれます。
それででも、わたしたちに届けられる声があります。いつの時代にあってもきずつきながらもひとを愛し、共に生きることをおそれない勇気を、わたしたち人間はすてなかったことを必死に伝えてくれるメッセージがあります。
だから、わたしたちもまたそのメッセージを、次の時代のおとなたちとこどもたちに伝えていこうと思いました。

窓の外にはもう、21世紀の風が吹いていました。

忌野清志郎「イマジン」

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