森進一と島津亜矢、そしてわたしの青春

7月5日、熊本県人吉市で8月19日放送予定の「BSにほんのうた」の収録が行われ、島津亜矢が森進一とスペシャルステージで共演しました。スペシャルステージというのはこの番組の人気コーナーで毎回40分間、2人の歌手が一緒に歌ったり相手の持ち歌を歌ったりしながら、すごく濃密なステージをつくり上げています。
島津亜矢は今年2月の放送で水森かおりと共演し、「さくら(独唱)」や「瞼の母」などを熱唱しました。とくに「瞼の母」は今まで何度も歌って来た中でもベストではないかと思います。
今回は森進一との共演ということで、どんなステージになるのかとても気になっていたのですが、さっそく会場に行かれた方の報告で歌った歌がわかり、雰囲気も教えていただきました。
わたしは若い時から森進一が好きでした。以前にも書いていますが、高校時代は寺山修司の影響で星野哲郎と畠山みどりが好きになったものの、高校卒業後はビートルズやボブ・ディランにかぶれ、すでに日本の流行歌や演歌とは縁がない生活をしていました。
70年安保闘争に吹き荒れる政治の季節からはぐれた反政治的青年だったわたしは、大阪の国鉄(JR)吹田駅の裏通りのアパートに住み、ビルの清掃をしながらわたしが生きていける隠れ家をさがしつづけていました。
仕事もひとりですることが多く、一日ほとんど人と話をしない毎日でした。ビルの清掃の仕事は朝が早く、たしか6時ぐらいに家を出て大阪駅につくと、「兄ちゃん、いい仕事があるで」と声をかけられることもたびたびありました。
清掃の仕事についた最初の頃は夕方3時に仕事場を出て、そのころ流行ったドノバンハットをかぶり、Tシャツと綿パン姿で、それに少し前に流行った「みゆき族」のアイテムだったズタ袋を持って心斎橋をぶらぶら歩いていると、今度はおまわりさんによく声をかけられ、交番に連れて行かれました。ズタ袋の中には、数冊の美術書と、ぼろぼろになったサルトルの「存在と無」、他には2週間に一度帰っていた実家の母が洗濯してくれた下着がぎっしり詰まっていました。
とにかく、大人たちから、社会からどこか遠くへ逃げて行きたかった、それが叶わぬなら身をひそめていたかった。子どもの頃から対人恐怖症だったわたしは、節約して小銭をためて、そのお金でひきこもりの生活をするさびしい夢を見ながら、大阪の街をさまよっていたのでした。
そんなわたしにも声をかけてくれる数人のともだちがいました。一週間に一度、梅田の喫茶店に集まったわたしたちは、共同生活の計画を話し合っていました。共同生活をすれば家賃も食費もうんと安くなり、あまり働かなくても暮していけると考えたわたしたちはそれから2年後、大阪府豊中市の大阪空港の近くの二戸建てのひとつを借り、6人で共同生活を始めることになります。結果的には1年ぐらいでしたが、わたしは念願の隠れ家を持てたのでした。

わたしと同じ1947年生まれの森進一が「女のためいき」でデビューしたのが19才の時でした。アパートにはテレビもなく、隣の部屋から聴こえてきた「ブルーライトヨコハマ」や「恋の季節」はよくおぼえているのですが、ラジオもこの頃は手元にはありませんでした。ボブ・ディランの「時代は変わる」がよくかかっていた梅田の歓楽街の怪しいゴーゴー喫茶に入り浸りだったわたしの心に、いったいどんな回路を通って森進一の歌が届いたのか、いまだにわかりません。
母子家庭で育ち、十数回も職を転々としたという境遇がどこか通じるところがあったのかも知れませんが、ビートルズやボブ・ディランとなんのジャンルの区別もなく、わたしは森進一の歌を深く受け入れていました。
「女のためいき」、「命かれても」、「花と蝶」、「年上の女」、「おふくろさん」、「襟裳岬」、「冬のリビエラ」、「北の蛍」…、ほんとうに数えきれないヒット曲がありますが、いつもたったひとりのひとへのぎりぎりの愛を、細い身体から絞り出すように歌う森進一に、男のわたしでもぞくぞくしたものでした。
実はわざわざ声をつぶしてつくられた独特の声が先行し、素晴らしい歌唱力が目立たない感がありましたが、歌の上手さは当初からジャンルを越えて作詞家や作曲家の認めるところで、作り手がついつい冒険をしたくなる刺激的な歌手であり続けてきました。
歌の上手いひとはたくさんいるのですが、ほとんどの場合、どこかこじんまりとした四畳半の隅から隅までをていねいに語っている感じで、窓の外に広がる夕暮れや漆黒の闇、まだ街が目覚める前の朝日の戸惑いの中で、必死に生きるひとたちの心を語るには、歌をより遠くに飛ばす想像力が必要で、その想像力を持ち合わせた歌手は数少ないと思います。
ひとそれぞれの好みを越えて、森進一はその数少ない歌手の一人に間違いありません。
そして、そんな歌手にはいつもそのひとと一緒に歩いてきたファンの方々がいます。
私生活においても決して幸せなことばかりではなかったような森進一にもまた、彼のすべてを愛おしく見守り、共に悲しみを担い、喜びを分け合って来たひとたちがいたのだと思います。

ここまで森進一のことを書いてきて、これは島津亜矢にささげるオマージュそのものであることに気づきます。 そういえば、歌に対する真摯な姿勢、ミスマッチを恐れず果敢にジャンルを越える冒険心、スタジオやステージなど「板」の上ではなく、黒い土の上で生まれる歌の最初の聴き手になることから磨かれる歌唱力、そしてそんな稀有の才能のゆえに引き受けなければならなかった苦悩など、あまりにも声がちがうので気づかなかったのですが、この二人には共通したものがあると思います。
そして、若い時から森進一が好きだったわたしが、それよりも熱烈に島津亜矢のファンになった理由が自分でよくわかったのでした。
そんな二人の共演は、わたしにとってこの上ない楽しみで、まだまだ先の放送日、8月19日が待ち遠しくてたまりません。
歌のラインアップだけを見れば、もう少し冒険をしてほしかったと、ないものねだりをしてしまいます。個人的には島津亜矢に「命かれても」か「北の蛍」を歌うと見事に島津亜矢の歌になるでしょうし、森進一にはどうしましょうか、案外「海鳴りの詩」か「北海峡」などを歌うと、おそらく森進一の歌になったかもしれません。
そんな勝手なことを書きましたが、もしこの二人がまともにぶつかればとんでもないステージになることでしょう。ほんとうに楽しみです。

森進一・襟裳岬

島津亜矢・北海峡

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  1. まとめtyaiました【森進一と島津亜矢、そしてわたしの青春】

     7月5日、熊本県人吉市で8月19日放送予定の「BSにほんのうた」の収録が行われ、島津亜矢が森進一とスペシャルステージで共演しました。スペシャルステージというのはこの番...

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