新しい戦前という明けることがない夜になる前に…

わたしたちは成長神話という長い夢から醒めることができるのか

 統一地方選挙の前半戦が終わりました。大阪の現状は維新の会の圧勝でした。近所で話をしていても維新ファンのひとが多く、まるで強気をくじき弱気を助ける「正義の味方」と思っている人がたくさんいます。雨がっぱやイソジン、大阪ワクチン、公立病院の民営化(独立法人化)、保健所や保健師の削減など数えきれない失政も、コロナによる死者が全国一であることも多くの人々にとっては、「失敗を恐れず頑張った吉村さんがかわいそう」ということになるようです。全国で有名になったSNSのハッシュタグ「#吉村寝ろ』に象徴される「いっしょうけんめい頑張ってる吉村知事」というイメージを肥大化させたのは大阪のテレビ番組でした。
 とくに朝日放送テレビの当時の女性コメンテイターが毎朝吉村知事をほめたたえたのが異様でした。冷静に見れば、国が進む方向をにらみながらおそるおそる半歩早く施策を打つという姿勢でしたが、「全国に先駆けて」と喧伝する彼女の勢いに番組が引っ張られただけでなく、他のテレビ局も取り残されまいとポピュリズムに走ってしまいました。大阪のメディアもまた東京メディアへの妬みがあり、維新の「妬みの政治」にぴったりはまってしまったのでした。
 もちろん、ここまで来るためには地域政党としての地盤を固め、地方議会から足腰を固めるしたたかな戦略が行きつ戻りつしながらも着実に党勢を広げてきたことがあります。
 今回の選挙で、維新はIR・カジノを焦点にせず「教育の完全無償化」をアピールしました。最近の国政選挙などでは吉村洋文知事が街宣で「大阪府は私立高校の完全無償化をしました。全国でも維新の改革をやらせてほしい」と訴えています。
 実際、わたしのまわりでも授業料の無償を理由に維新を押す人が多いのも事実です。しかし、実態は国の制度に則ったものも多く、たしかに私立高校の授業料は無償化しましたが所得制限つきです。大阪だけが先駆けて成し遂げたわけではありません。完全にまちがいとは言えませんが事実とは異なります。

「既得権益を打ち破る正義の味方」の犠牲になったひとびとの痛み

 維新政治と言えば「身を切る改革」というキャッチフレーズにあるように、まず最初に公務員をターゲットに人員削減と待遇見直しを断行し、公的サービスの民営化や縮小・廃止などをすすめました。生活が決して楽ではない市民にとって公務員叩きは気持ちの良いものとしてあることを熟知したものでした。
 維新政治の実績成果とされる政策は、2003年から2007年までの関淳一市長時代の改革を橋下氏及び維新の会が引き継いだという事情があります。2004年、大阪市の職員厚遇問題(カラ残業や、ヤミ年金・退職金の積み立て等、不正な金の流用)が発覚、関市長は上山信一氏ら外部有識者の助言を得て市政改革に取り組みました。橋下氏と維新の会の実績とするものの中味は、すでに関市長時代に実行されたものも数多く含まれているはずです。しかしながら関市長時代は行政内部における抗争だったものを、橋下氏と維新の会は広く市民の支持を背負い、「既得権益を打ち破る正義の味方」とイメージづけることに成功したのでした。
 そして、関淳一氏の市政改革のブレーンだった上山信一氏を特別顧問として迎え入れた橋下氏と維新の会の行政改革の中身は、関市政でやり残したものも多くふくまれていました。
 維新の政治理念は選挙と多数決の民主主義で、誰にも文句のつけようがないもののように見えます。しかしながら、それは時には他者への妬みすら道具とする「刹那的多数決民主主義」で、過去のひとびとが託した思いも記憶も、こどもたち(未来の大人たち)が生きる街の設計図への想像力も必要としない、いまを生きるわたしたちだけを構成員とする民主主義とも言えます。
 世界の歴史からみれば冷戦後を経て世界を席巻することになった新自由主義とグローバリズムを追いかけて公的サービスや公的事業の民営化、民間委託が絶対視されてきました。しかしながら民営化、民間委託によってコストを抑える根拠のひとつが人件費の削減にあるとするなら、委託された民間企業で働くひとたちの給料が低いことが前提で、より低い給料で働くひとびとや非正規雇用で働くひとびとの痛みを犠牲にした改革であると言わざるを得ません。「身を切る改革」によってお金を生み出し、大阪が成長していくとする維新の政治は、実は身を切らされるひとびとの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけないと思うのです。

妬みの政治から驕りの政治へ 万博とIR・カジノと成長神話

 維新のもう一つのキャッチフレーズである「成長を止めるな」という時、当面の万博とIR・カジノなど、副都心として大阪をよみがえらせたいという野心が「夢よもういちど」と思うひとびとの射幸心をあおります。実際、大阪に限らず戦後ずっと公共投資によって雇用と需要を生み出し、経済成長を続けてきた成功体験を、わたしたちはまだ忘れられずにいます。
 言い換えればわたしたちの心の中に巣くう「成長神話」を捨てることができない限り、維新の躍進は続くことになるかもしれません。失われた10年がすでに30年になろうとしているのに、わたしたちはこれからも「成長神話」の眠りからぬけだすことができないのでしょうか。
 前回の国政選挙から、吉村さんが大阪以外の地域でたくさんの聴衆を集め、「大阪は身を切る改革で成長している。これを全国に広げて成長を取り戻そう」とアピールしています。
 わたしは維新政治が「妬みの政治」から「驕りの政治」へと大きく進化した表れだと思います。維新の大きな自信はやがて維新そのものを滅ぼすことになるとは思いますが、それはまた維新に危なさを感じてきたわたしたちも巻き添えにならざるをえないでしょう。
 奈良県知事選挙の勝利は自民党の内紛はあったにしても、大阪のメディアだけでなく、全国のメディアも一緒になって吉村さんと維新政治を全国区にしようとする一歩なのだと思います。

立ち止まる勇気と助け合う勇気と分かち合う勇気

 これは大変危険なことで、大阪のメディアが吉村さんをカリスマにしたてたように、大阪の実情が大阪府民にも全国のひとびとにもよく知らされないまま、メディアをまきこむ印象操作で「大阪の成長」が信じられ、「身を切る改革」の名の下でさらなる公的施策の民営化をはじめとする新自由主義施策が世界の流れに逆行して暴走するのではないかと心配です。
 事実、岸田政権はあっさりと大阪のIR・カジノを認定し、後押ししようとしています。
 わたしたちはほんとうに長い間、立ち止まってはいけないという脅迫観念をもちつづけてきました。しかしながら、いまこそ立ち止まる勇気を持ちたいと思うのです。

 IR・カジノなど無茶な成長戦略を捨て、成長がなくても安心できる豊かな国や社会は実現できないのか。
 東京をはじめとする都市集中型の社会ではなく、小規模な町の「顔の見える経済・社会・文化」をゆるやかに築く地方分散型の社会はできないのか。
 「年老いることや介護を必要とすること」がいけないことと当事者に思わせる福祉サービスしか用意できないのか。
 学校が子供たちを調教する教育の場ではなく、さまざまな個性を持つ子どもたちが学びあう場になることは理想でしかないのか。
 さまざまな問題や宿題をひとつずつ解決するために話し合い、助け合うことは、実はとても勇気のいることだけれど、今生きているわたしたちだけでなく、かつてこの町この国で生き、愛し、夢見てきた数多くのひとたちが残した記憶も、またこれからこの町この国で生きていくだろう子どもたちの切なく幼い夢も、この路石の下にいっぱいつまっていることを信じて、ここから一歩踏み出して、あなたと出会い、話しあいたいと思うのです。
 朝が来ない夜がないと言える間はいいけれど、新しい戦前という明けることがない夜になる前に…。