わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」 NO.3

1987年5月、豊能障害者労働センターは箕面市桜が丘の市営住宅の空き地に、全国から寄せられた1000万円の基金で建てた新事務所に引っ越しました。
豊能障害者労働センターの経営状態からは決して用意できないお金を地域の方々をはじめ、関連団体や個人の方々、そして機関紙「積木」の読者の方々が寄付してくださったのでした。
また前年の12月に河野さんの全国的な活動で出会った小室等さん、長谷川きよしさんによる、豊能障害者労働センターの事務所移転応援コンサートを箕面文化センターで開き、その収益も移転費用に使わせてもらいました。
その日のコンサート終了後、お二人とも初代事務所に来てくださり、河野さんをはじめ10人足らずでささやかな打ち上げをしました。河野さんがお二人へのねぎらいと障害者問題を話している間、のちに箕面市議会議員を経て今は被災障害者支援「ゆめ風基金」の事務局長をつとめる八幡さんがチケット売り上げの計算をし、今は箕面市障害者の生活と労働推進協議会の代表理事である武藤さんが何回も近所の自動販売機のビールを買いに走っていました。
わたしは移転基金事務を担当していた関係で同席していたのですが、なにしろ小室さんも長谷川さんもテレビの向こう側にいるスターですから、一言もしゃべらずただただ、お二人を見つめるだけでした。
さすがに長谷川きよしさんは早くにお帰りになったのですが、小室さんは深夜にまで及ぶ「飲み会」に最後までつきあってくださいました。
夜も更け、すきまだらけの部屋に一段と木枯らしがビュンビュン吹く中、「河野さん、ほんとうに寒いね」といい、辛子色の皮ジャンを体に巻き付けて体を震わせていた小室さんの姿を今でも思い出します。あれからずいぶん年月が経った今、小室さんが「ゆめ風基金」の呼びかけ人代表を引き受けられているのは、この頃からの河野さんとの深い縁もあったのでした。
最初の事務所で活動した5年間は毎月まともに給料が出ることはなく、河野さんが友人からお金を調達してくるのもたびたびでした。会計を担当していた八幡さんが笑いながら「今月も赤字です」と報告するのをみんなでまた大笑いするという始末でした。河野さんといえば何人かお金を貸してくれる友人を捕まえていて、お金を借りては期限が来たら別の友人から借りたお金で返済するというあんばいでした。
新しい事務所に移転した後、豊能障害者労働センターは激動の時代を迎えるのですが、黎明期の5年間はみすぼらしい現実の田畑に種をまき、大きな夢を育てるための時間で、築30年の古い民家だった初代事務所はいわば「梁山泊」でした。
河野さんは古くは三井三池炭鉱の労働争議、60年安保、沖縄問題、佐藤訪米阻止闘争、学園紛争、70年安保などの全国的な運動から、小さな町工場で働く労働者のための小さな組合の組織づくりまで、彼の実体験を酒の肴にしながら地域社会や日本社会、そして世界にまで視野に入れた話を独特の語り口で語ってくれました。
そんなとても濃密な話の中でも、当然のことながらもっとも河野さんが熱を帯び、必死に伝えてくれたのは障害者運動の歴史と、当時の現在進行形のさまざまな障害者運動でした。
その中でも「青い芝」(日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会)の運動について河野さんの話を聞き、目から鱗のおどろきとともに障害者の運動が(彼の口癖だった)「にんげんの運動」であることを学び、心が躍りました。
障害児を殺す母親に同情し、「施設が足らない社会が悪い」とする減刑運動に対して、「我々は殺されていい存在ではない」と猛然と異議申し立てをし、車いすを利用する障害者の乗車を拒否するバスと、迷惑だとする健全者に対して「我々を乗せろ」と乗車闘争をする運動は、当時の社会に大きな衝撃をあたえました。
これらの闘争は、障害者をこの社会にあってはならない存在とし、障害者がいないことを前提とした社会への痛烈な抗議で、差別をなくす運動の中でさえ障害者の存在が排除されていると主張しました。
70年代の後半、関西での青い芝運動の中で障害者と介護者の関係性についての内部の激しい議論の渦中に河野さんもいたこともふくめて、彼の実体験を通した障害者運動の厳しい歴史は、始まったばかりの豊能障害者労働センターの若いスタッフに先人たちへのリスペクトとともに、自分たちが切り開かなければならない荒野の道の行方を照らしてくれたのでした。
豊能障害者労働センターは障害のあるひともない人も共に働き、障害者の所得補償と自立生活をすすめるところから障害者の人権を全的に獲得することを目指しましたが、そもそも障害者と健全者の間には乗り越えられない深い溝があり、差別と排除があることを青い芝の運動はおしえてくれました。
豊能障害者労働センターは当時の障害者団体からは健全者が障害者を抑圧し、働かせている「差別団体」と思われていたところもありましたが、わたしたち自身は青い芝の運動や全障連の運動へのコンプレックスの混じった憧れを持ちながら、当事者の運動と働く場づくり運動との間で引き裂かれながら活動していたのでした。
もし、河野さんが彼女たち彼たちの熾烈な運動の歴史を教えてくれてなかったら、豊能障害者労働センターはみすぼらしい福祉団体でしかなかったことでしょう。
中でも河野さんから何度も聞いたのが青い芝の行動綱領でした。

一、われらは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する。
われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ行動する。
一、われらは、強烈な自己主張を行なう。
われらが、脳性マヒ者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうする意志である。われらは、強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。
一、われらは、愛と正義を否定する。
われらは、愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
一、われらは、健全者文明を否定する。
われらは、健全者のつくり出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、われら独自の文化をつくり出すことが現代文明の告発に通じることを信じ、且つ行動する。
一、われらは、問題解決の路を選ばない。
われらは、安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動であると信じ、且つ行動する。

後年、実際に豊能障害者労働センターの障害者たちと人生を共にする中で、わたしは健全者の言葉や行動が障害者にとってしばしば暴力でしかないことや、障害者と健全者が対等であることがほとんど絶望的に思えること、ましてや世間とたたかい、事業で収益を得ていく中での障害者と健全者のありようなどに思いまどうとき、青い芝の行動綱領がいかに深いもので、半世紀を過ぎた今もあせることなく障害者に勇気を与え、未来までも照らす指針であることを痛感しました。
この行動綱領を作成した横田弘さんは1998年8月、大阪府同和地区総合福祉センターで開催された全障害連交流大会のシンポジウムに出席され、この行動綱領を一つずつ説明してくださったのですが、どの条文も文学的でも哲学的でもなく、脳性まひの当事者として子供時代からいつ殺されるかもしれないという恐怖とともに生きてきた中でたどり着いた、自分のいのちと尊厳を守るために必要な方法なのだと話されました。
そして21世紀を前にして、青い芝の運動の行動綱領が時代にそぐわなくなっているのではないかという問いにこう答えました。
「障害者自立センターとか、障害者の働く場・生きる場とか、70年代に比べて障害者が少しは生きやすくなっていると思われるかもしれないが、この国は何時でもわたしたちを殺す準備をしていることをわすれないでください。」
そう言い残して大阪を去って行った横田さんは、2013年に亡くなられました。
2016年、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で19人が刺殺され、26人が重軽傷を負った事件は大きな衝撃を与えました。障害者を「人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在で、殺すのが世のため」などとする犯行理由を平然と述べる犯人の背後から彼の犯行を後押ししたのは、この国の差別的な福祉制度と健全者幻想であることが明らかになりました。
横田さんの言い残した予言が胸を打つとともに、青い芝の行動綱領がますます必要とされてしまう恐怖と非寛容の暴力に満ちた悲しい時代へと突き進んでいることを痛感します。

その中でも「青い芝」(日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会)の運動について河野さんの話を聞き、目から鱗のおどろきとともに障害者の運動が(彼の口癖だった)「にんげんの運動」であることを学び、心が躍りました。
障害児を殺す母親に同情し、「施設が足らない社会が悪い」とする減刑運動に対して、「我々は殺されていい存在ではない」と猛然と異議申し立てをし、車いすを利用する障害者の乗車を拒否するバスと、迷惑だとする健全者に対して「我々を乗せろ」と乗車闘争をする運動は、当時の社会に大きな衝撃をあたえました。
これらの闘争は、障害者をこの社会にあってはならない存在とし、障害者がいないことを前提とした社会への痛烈な抗議で、差別をなくす運動の中でさえ障害者の存在が排除されていると主張しました。
70年代の後半、関西での青い芝運動の中で障害者と介護者の関係性についての内部の激しい議論の渦中に河野さんもいたこともふくめて、彼の実体験を通した障害者運動の厳しい歴史は、始まったばかりの豊能障害者労働センターの若いスタッフに先人たちへのリスペクトとともに、自分たちが切り開かなければならない荒野の道の行方を照らしてくれたのでした。
豊能障害者労働センターは障害のあるひともない人も共に働き、障害者の所得補償と自立生活をすすめるところから障害者の人権を全的に獲得することを目指しましたが、そもそも障害者と健全者の間には乗り越えられない深い溝があり、差別と排除があることを青い芝の運動はおしえてくれました。

小室等「死んだ男の残したものは」

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