人生を語る大阪弁の復権。能勢cafe気遊での木村充揮とヤスムロコウイチ

10月4日の夜、能勢のCafe気遊で、木村充揮とヤスムロ一コウイチのライブがありました。8月15日にも同じく気遊にて金森幸介と有山じゅんじのライブがあり、2か月もたたないうちに素敵なライブが続きます。
今回のコロナショックは単に一時の災禍にとどまらず、社会の在り方や生活の在り方が変わり、やむをえず三密を避け、マスクをし、自宅にいる時間が長くなる傾向は続くと思います。そうなると事態の鎮静化しても、自分と他者との距離感や、自分を俯瞰するもう一人の自分との距離感などが絶えず意識され、無条件の一体感を感じるようなカタルシスに酔えず、醒めた心がいつも存在するように思います。
しかしながら小さなライブハウスやカフェやバーなどで続いてきた弾き語りのライブは、肉声による生の空気感と息遣いや表情など、音楽を身体全体で受け止めるディープな興奮と感動を呼び、今までより一歩踏み込んだ音楽の冒険ができるのではないでしょうか。
また、演奏するブレイヤーにはごまかしのきかないパフォーマンスを求められますが、そのぶん一度の演奏で深く受け止めてくれるファンを産むチャンスにもなっています。
運営的に苦しいところはあると思うので、ただ珠玉のライブを楽しむだけのわたしたちももう少しのチャージ料金を負担するべきだと思いますが、気遊さんのライブはこれからの音楽の楽しみ方のひとつの方向だと思います。

さて、開演時間ちょうどに、ヤスムロコウイチのライブが始まりました。
このひとの歌をはじめて聴いたのは2年前の「祝春一番」の時でした。春一番はわたしが知らない歌うたいを発見する楽しみがあり、毎年参加していたのですが、その中でもヤスムロコウイチは衝撃的でした。
このひとのブルースは歌謡曲でもあり、時代の片隅で生きるひとびとの言葉にならない心情を歌っていて、歌謡曲が大好きなわたしは一気に60年代の青い時へとさかのぼり、人並みに恋をし、わけのわからないフランスの思想家の本をぼろぼろになるまで読んでいた甘酸っぱくもほろ苦い日々を思い出すのでした。
その頃、男3人女3人の6人で共同生活をしていました。周りのみんなはビートルズのファンで洋楽のポップスやロックを聴いている中で、わたしは森進一や青江三奈が大好きな歌謡曲人間でした。
その頃流行ったドロップアウトやヒッピーのような文化も持たず、傍から見るほど退廃的なにおいもなく、共同生活はできるだけお金を使わずに暮らしていくための生活の知恵でした。世の中は70年安保闘争で吹き荒れていて、大学生の運動家が時々隠れ家のようにわたしたちの家に泊まりに来ました。そのうちのひとりはわたしを梅田のジャズ喫茶に連れて行ってくれて、ジョン・コルトレーンの「至上の愛」のB面をお店にリクエストして、曲が終わると「細谷君もそのうち、立ち上がる時がくるよ」といい残し、京都に戻っていきました。わたしが始めて聴いたジャズでした。
歌という歌が恋歌であるように、ヤスムロコウイチの恋歌は切なくて、心の中の独り言のように直接届けられるそのメロディーは、わたしにはるか50年前にビル街のはざまの商店街から聴こえてきた青江三奈の「恍惚のブルース」を思い出させるのでした。メランコリックな歌詞も曲も歌声も、世の中の悲しみをすべて流してしまう激しくて切なくてやさしいギターの音に身を任せてわたしは、わたしにもあったはずの「青春」の風景を思い出していました。このひともまた歌でなければならない歌を歌う、蛇使いならぬ「歌使い」だと思います。

強くなくていい 負けてばかりでいい
ぼくと君にしか 見えないものがある
それが痛みでいい 悲しみでかまわない
雨が上がるまで 二人でずっと夜を見てた
(ヤスムロコウイチ「夜を見てた」)

休憩をはさんで木村充揮が現れ歌いだすと、今度は一気に大阪の下町の、アスファルトやコンクリートに覆われる前の土の匂いのするブルースが立ち上がりました。におい立つということばがぴったりの彼のだみ声はわたしの心の奥深くにどこまでもしみこみ、今度はわたしを青い時からさらにさかのぼり、小学校の頃の風景にわたしを連れて行ってしまうのでした。
歌っているのと同じくらい、ダジャレを連発しながらつづく客との掛け合いは、実はメロディーやリズムがなくてもそれもまたトーキングブルースなのだと思います。
彼のブルースは大阪の街にあふれるたくさんの大阪弁をコラージュしたいくつもの物語をつくり、遠く離れたアメリカ大陸の土着のブルースを引きはがし、大阪にしかない土着のブルースとなって帰ってくるのでした。
大阪と大阪のひとびとを見つめるやさしいまなざしと、国家や社会的な権威や、何ものにも依存しないアナーキーな心を隠し持つ彼のブルースを聴くと、大阪弁が方言であることを思い出します。いつからか、おそらくジャニーズよりも深く広く全国の行政に入り込み、今の芸人による翼賛体制を着々と推し進める吉本グループによって、大阪弁はもう一つの標準語になってしまったかのようです。
木村充揮のブルースは、方言としての大阪弁の復権を感じます。かつて寺山修司が「標準語は政治や経済を語る言葉になってしまった。人生を語るに足るのは方言しかない」と言いましたが、彼はまさにエセ標準語に成り下がった大阪弁を取り戻し、方言によって人生を語るブルースを歌い続ける抵抗の詩人だと思います。もっとも、こんな思いはわたしだけの妄想で、彼にちゃんちゃらおかしいと笑われることでしょうが…。
もうひとつ、誤解に誤解を重ねると、今隆盛を極める維新の会はエセ標準語による都構想で、方言としての大阪を完璧に壊そうとしています。かつての大阪人は東京なんて軽蔑する都市でしかなく、大阪が日本から独立してもいいぐらいの気概で商売をし、つらいことを笑い飛ばし、独自のかけがえのない文化をつくってきました。
大阪人の経済は新自由主義とは程遠い、「儲かりまっか」「ボチボチでんな」と声を掛け合う顔の見える経済で、肩ひじ張らずに助け合う素晴らしい経済でした。ゆめゆめ「副都心」計画など東京への劣等感丸出しの維新の会の野望とは程遠いと思います。東京が諦めかけている「成長神話」と、土光臨調から面々と続く公務員いじめをしている間に、それに乗せられてきたわたしたち大阪人は、肩を張らずにおせっかいすぎるほどの親切な心を忘れかけているのかも知れません。
この日、木村充揮が歌ってくれた「天王寺」を聴くと、ほんとうに涙が出ます。この歌にあふれる人情の町・大阪を、維新の会は壊そうとしているのだと改めて強く感じます。ダムによってひとつの集落が存在しなくなったように、大阪の街が400年にわたって記憶しているすべてが消えてしまったことを後悔することのないようにしたいものです。いやすでにかけがえのないたくさんの風景と匂いと思い出がなくなってしまいましたが…。

大阪ミナミの玄関口は 通天閣がそびえ立つ天王寺
坂を下って新世界 動物園に茶臼山
おっちゃんおばちゃんアベツクさんと
家族連れまで気楽に過ごす
これがオイラのふるさと天王寺
(木村充揮「天王寺」)

ヤスムロコウイチを呼んでの掛け合いは漫才のようで、ヤスムロコウイチはほんとうに木村充揮を尊敬しているのだなと思いました。
ヤスムロコウイチのギターはソロの時よりもたたみかけるギターの音色が木村充揮のブルースにピッタリ寄り添っていて、とても気持ちが軟らかくなりました。
アンコールの「胸が痛い」は圧巻で、涙が止まらなくなりました。
木村充揮さん、ヤスムロコウイチさん、素敵な時間をありがとうございました。
また、これだけ声質の違う声のそれぞれの個性を消さずにバランスをとる村尾さんのPAはさすがでした。ありがとうございました。
そして音楽を底抜けに愛し、音楽のすばらしさをいつも教えてくれる気遊のマスター・井上さんとお店のスタッフの方々に感謝します。

ヤスムロコウイチ「夜を見てた」

木村充揮&大西ゆかり@天王寺 祝春一番2008

木村充揮/胸が痛い

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