豊能障害者労働センター15周年記念・桑名正博コンサート「風の華’97」

1997年7月20日、最後のコンサートとなった桑名正博コンサート「風の華’97」を開催しました。1993年のコンサートから4年がすぎ、豊能障害者労働センター15周年記念として開いたこのコンサートははじめての全席座席指定でした。

1995年の阪神淡路大震災の時、わたしたちは阪神淡路大震災障害者救援本部に参加しました。当時は豊能障害者労働センターの専従員だった八幡隆司さん(現被災障害者支援「ゆめ風基金」理事)を派遣するとともに、救援物資のターミナルとなり、物資の確保とともに被災地へ届ける活動をしました。
わたしたちは全国の地方紙各紙にお願い文を送り、支援金と支援物資提供の呼びかけた他、障害者救援本部からの障害者運動団体へ呼びかけにより、豊能障害者労働センターの事務所には全国から宅配便で送ってくれた支援物資であふれました。
その中でも最もわたしたちの思いに応えてくださったのは、なんといっても豊能障害者労働センターの機関紙「積木」の読者のみなさんでした。労働センター設立以来、最初は手書きのガリ版刷りではじめた機関紙の発行は1984年から始めたカレンダーの通信販売と、1988年から4期務めた八幡隆司さんの箕面市会議員の活動などで年々発行部数が増えていきました。そして1990年からの桑名さんのコンサートにより、今までと違うところにわたしたちの活動の輪が広がっていきました。
そのことが、どれだけわたしたちの障害者支援活動を助けてくれたことでしょう。
そして、この年の7月には箕面市民会館で永六輔さんのトークイベントを開き、その収益の一部も支援金としました。

1996年4月、わたしたちは映画「午後の遺言状」の上映会を開きました。前年の8月だったと思うのですが、わたしは大阪梅田の映画館でこの映画を観て、箕面で上映会をしたいと思ったのでした。わたしたちは1994年に「森の中の淑女たち」の上映会を開きました。一般の映画館にかからない映画を日頃映画館に足を運ぶことがなくなった人たちに楽しんでもらおうと、「一日映画館」として企画し、とても喜んでいただきました。
その頃、障害者が当たり前にくらせる社会をめざして活動していく中で高齢者の問題がとても気になり、「森の中の淑女たち」に描かれた老人たちや、山田太一のドラマ「男たちの旅路」のシリーズで描かれたバスジャックする老人たちの姿を通して、人間という存在の不思議さや、障害者も老人も自分らしく生きることの素晴らしさに共感していきました。
新藤兼人監督の「午後の遺言状」もまた、老いることをその人なりに受け入れて生き抜くことへの勇気や、人間の尊厳を真正面から見つめた素晴らしい映画です。
わたしは、この映画の上映会を通じて、家族介護や福祉制度など、家族や行政サービスの事情ばかりが問題になり、心を縮ませて生きざるを得ない高齢者や障害者がもっと「わがまま」に、自分らしく生きるための福祉制度を必要としているのではないか、そしてそれは案外「友情」や「好奇心」を持った福祉制度なのかもしれないと考えていました。
この映画は年明け後、いろいろな映画賞にノミネートされ、賞を獲得していき、とうとう3月末の日本アカデミー賞のグランプリを獲得しました。
わたしたちは桑名さんのコンサートとほぼ同じ宣伝の仕方で、すでにこの時には満席に近い状態だと予想していましたので、あくる日にすぐ、午後からの3回上映を午前にも増やし、合計4回の上映としました。
そして、上映会の2週間前に送るように準備していた機関紙「積木」の特集号で、午前の上映を知らせたところ、当日その午前の部に800人のお客さんが押し寄せ、500人しか入れない会場は大混乱に陥り、入れなかったお客さんに厳しく怒られてしまいました。
結局この日は上映回数4回で2000人を超えるお客さんが来場され、たしかに大成功だったともいえるのですが、アンケートでも「二度と来ない」という怒りの声がたくさんありました。
桑名さんのコンサートをするまで、豊能障害者労働センターのイベントに来てくれるお客さんは少なく、精いっぱいの宣伝や呼びかけをしてもあふれる心配などは無用でした。
わたしは今さらながらこの時はじめて、お客さんが来ない心配だけでなく、満席を越えてしまう心配もしなければならないという、主催者が持っていなければならない責任の重さを知りました。言い換えれば、桑名さんのコンサートをきっかけに、機関紙「積木」を中心によびかけするわたしたちのイベントに協力してくださる方々が圧倒的に増えていたことでもあり、それはとてもうれしいことで信じられないことでした。
しかしながら、コンサートであれ映画であれ、時間をつくって来ていただいたお客さんにゆっくりと楽しんでいただき、「来てよかった」といわれる内容と運営方法でなければならないという、あたりまえのことを忘れていたことを反省しました。

そこで、1997年の桑名さんのコンサートでは全席指定席としました。それはいままでのような自由席で席数以上にチケットを発行したり、当日割引きのチケットを機関紙「積木」に同封して呼びかけるやり方をやめてしまうことで、プロのイベンターの情報宣伝力を持たないわたしたちの力量ではとても難しいことでした。
頼れるのはまたしても機関紙「積木」で、しかもいままでと違い、チケットを預かってもらうことよりもチケットを購入してもらうお願いをしなければなりません。正直のところ、いままでのコンサートでは前日までのチケット販売数は100から200がやっとで、ほとんどがチケットを預かってもらって知り合いの方に販売してもらうのと、当日の割引券で1000人のお客さんに来てもらっていたのでした。
いま、手元にある機関紙を見ると、当日まで実に4回の特集号を発行していましたし、その頃の読者の方にはあきれられるほど、コンサートに来てもらいたいというお願いをしていました。さらに、このときはじめてチケットぴあやローソンチケットなどのプレイガイドにチケットを預けました。
その努力が報われて、当日は850人のお客さんが来てくださいました。1000人には満たなかったものの、わたしとしては座席指定でこれだけのお客さんに来てもらえたことをとてもうれしく思いました。
4年ぶりとなるこのコンサートをすることを決めたのは、桑名さんもお客さんも「来年も」と思ってくださっていたのに、続けられなかったことへの申し訳ないという思いと、これまでのなみなみならぬ好意に感謝の気持ちを伝えたかったのですが、そのあたりのことも桑名さんはよく知っていてくれたみたいで、これが最後という思いでステージに立ってくださったようです。
アンケートでお客さんが「4年ぶりに来たけれど、今回が一番良かった」と書いてくださったり、桑名さんをはじめ出演者からのあたたかいメッセージに心がふるえたことを思い出します。
この時の機関紙から、わたしの記事を3本転載します。実は私事で恐縮ですがこのコンサートの一週間前にわたしの母が亡くなり、今回の記事はわたしの個人的な思いなどをつづったもので、これが情宣になったのかはさだかではありませんが、わたしにはこんなやり方しか思いつきませんでした。また、このブログで再三出てくる文章もあると思いますが、この機関紙「積木」が初出で、既読感が出てしまうこともお察しください。

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