松井しのぶと宮沢賢治とわたしの青春

松井しのぶさんの一見かわいらしいイラストを見ていると、その奥に透明な森というか、たくさんのいのちがそのかがやきをかくして生きる物語がひろがっていて、わたしに19才のころに読みあさった宮沢賢治の童話を思い出させてくれます。

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗(らしゃ)宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないことを、わたくしはそのとおり書いたままです。
(「注文の多い料理店」序 宮沢賢治)

子どものころは怪人二十面相や名探偵ホームズにあこがれ、鬼ごっこをアレンジした少年探偵団ごっこに明け暮れていたわたしに、宮沢賢治の童話が心に入り込むことなどなかった。中学の国語の教科書で「永訣の朝」が載っていて、「あめゆじゅとてちてけんじゃ」という方言のくりかえしが、妹の死に直面する兄の切迫した悲しい心をみごとに表現していたことをかろうじて思い出します。
高校を卒業したものの、わたしは半年で建築設計事務所をやめました。時代は70年安保闘争に代表される政治の季節でもありましたが、1950年代半ばからの高度経済成長のただ中で、日本全体が戦後民主主義の心を巧妙に捨てることですこしずつ貧乏ではなくなっていく時代でもありました。
野望と妄想がきしむ暗い青春のふちに立ちつくし、対人恐怖症のわたしは気の合うともだちとだけつきあい、「おとなたち」とは無縁なところで生きていきたいと思いました。高校を出てすぐ友だち3人と暮らしはじめましたが、やがてそのうちのひとりと一緒にJR吹田駅前の古いアパートに移り、それからまた半年ほどでその友だちも出て行きました。(そのともだちが2年前に亡くなってしまいましたが、病床でわたしに島津亜矢を教えてくれたK君でした。)
当然会社勤めができないわたしは今で言うフリーターで、ビルの清掃をしながらなんとか社会とつながっていました。
高校を卒業して1年がすぎていました。1966年7月、わたしは19才になっていました。
アパートの2階の部屋には家具というものがなく、ダンボールに下着と本を詰め込み、上着はハンガーにかけていました。かなり大きな窓は東向きで、朝の光は容赦なくわたしのからだをつつみました。わたしは窓際に立ち、外に広がる風景をみつめました。今ではもう遠い風景ですが、そこは旧国鉄貨物線の吹田操車場がはるか遠くまで広がり、出発を待つ蒸気機関車が「ポー、ポー」と汽笛をひびかせ、黒い煙がもくもくと朝の風をゆするのでした。
何本もレールが交錯し、続いていて、蒸気機関車は黒く光り、そのはるか上から見下ろすように、空はやさしく朝の光をつつんでいました。それはほんとうに美しい風景でした。窓ガラスが割れて青空の破片が部屋に散乱するマグリットの絵がありますが、わたしが見続けた朝の風景もまた、窓に切り取られた一枚の絵そのものだった。
その風景を見ながら、わたしは心でさけびました。「自由だ。助けてくれ」。実際、そのころのわたしは数人の友だちしかいませんでしたし、それも1週間に1度も会わず、またビルの清掃仲間のお年寄りたちにかわいがられはしましたが心を開くはずもなく、まったくだれとも話をしない日もありました。
それがわたしの望みだったはずで、事実あの時ほど自由だったことはなかったのですが、それは同時にだれひとりわたしのことなど関心ないということでもありました。街にはこれだけ多くのだれかが多くのだれかにしゃべりつづけているのに、わたしひとり透明人間のように騒々しい街を通り抜けていました。それが孤独ということなのだと、わたしははじめて知ったのでした。
そんな毎日を送っていたわたしの楽しみのひとつが、古本屋めぐりでした。一歩店の中に入るとほこりっぽく薄暗い空間は、わたしの心をなごましてくれたものでした。雑音だらけのラジオの向こうから擦り切れた声で、アームストロングが「聖者の行進」を歌っていました。
わたしはアパートの近くの古本屋で、天沢退二郎著「宮沢賢治の彼方へ」を買いました。この本がきっかけで、わたしは宮沢賢治の童話集を読むことになったのでした。
実際のところ、天沢退二郎をはじめ多くの論者が語る宮沢賢治の世界を理解できたわけではありませんでしたが、わたしの孤独な心に宮沢賢治の童話はとてもなじんだのでした。幸せな話、悲しい話、愉快な話、教訓話など、どの童話も東北岩手の厳しく透きとおった風景から生まれたもので、時も場所もまるでちがうはずなのに、読み始めたとたん、心の奥に大切にしまっておいたなつかしい風景があふれ、その中に子ども時代のわたしが立っていました。
ボールを当てて遊んだガード下、そのコンクリートに張られた場末の映画館のポスター、かくれんぼに最適だった神社につづく小学校の裏庭、母と兄と3人で暮らしたバラック小屋、そのまわりの一面の田んぼ、木の電柱、そのぼんやりした電球の下で友だちとしゃべった夏の夜…、岩手の風景とはまったくちがう、わたししか知らないなつかしい風景がよみがえり、わたしに語りかけるのでした。
いま読み直してみて、宮沢賢治の童話ではどんなものも語り始めるのに驚いてしまいます。普通の擬人化を行き過ぎて動物や植物はもちろん、岩も鉱石も電信柱も信号も、時には大きな倉庫やちりとりまでもが語りかけるのです。それはまさしく、孤独な心にこそ聞こえてくる宮沢賢治の孤独そのものなのだと思います。けれども、けっしてその孤独はつらいだけではないのです。孤独であるからこそ人間だけではなく、この星のすべての小さないのちとつながっていけることを、宮沢賢治はわたしに教えてくれたのだと思います。
松井しのぶさんのイラストからあふれてくる、このせつなさはなんだとずっと考えていました。今はそれが孤独な心、つながろうとする心の手紙なのだと思っています。そして、19才の日々を過ごしたあのアパートの美しい朝の風景、大きな窓に切り取られたわたしの孤独、部屋に散乱した空の破片…、宮沢賢治の童話がそうであったように、松井しのぶのイラストはわたしのなつかしい風景そのものなのです。そしてまた、あなたのなつかしい風景もまた……。

けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
(「注文の多い料理店」序 宮沢賢治)

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