ミレーの「落ち穂ひろい」のごとく路上の小さな手紙をひとつひとつ読むように 

わたしは街の子、巷の子
窓に明かりがともる頃
いつもの道を歩きます。
(美空ひばり「わたしは街の子」 1951年)

「街」ということばをはじめて知ったのは、「平凡」、「明星」にのっていた美空ひばりの歌でした。「街」というにはほど遠かった「村」のあぜ道で、「帰ろ帰ろ」とかえるが歌うのです。そうして、夕暮れがわたしたちの後ろ姿におそいかかり、真っ黒な夜が家々の窓の明かりを四角に切り取るのでした。
「街」は都会でも高速道路でもファミリーレストランやカフェでもありませんでした。ランニングシャツと半ズボンでそろばん熟に通うわたしのあこがれの「未来」だったのです。
母と兄とわたしの三人は、雨露をしのぐだけのバラックで身を寄せて暮らしていました。わたしと兄を育てるために朝六時から深夜1時まで一膳飯屋を女ひとりで切り盛りし、必死に働いていた母のせつなさと反比例するように、わたしたちは圧倒的に貧乏でした。
それでも中古ラジオから聞こえる美空ひばりの歌は、わたしに希望と夢を届けてくれました。それは学校の教科書で学んだ民主主義よりも強烈に、イワシを焼く七輪の煙が路地を埋め尽くすように暮らしの中ではぐくまれる「路地裏民主主義」への信頼であり、「福祉」もまた遠い空の飛行機雲ではなく、貧しいながらも、いや貧しいからこそ「助け合う」ことの大切さを教えてくれたのでした。

1982年、わたしは思わぬきっかけで箕面の障害をもつ人たちと知り合いました。それまで障害者との出会いはありませんでしたが、わたしは彼女彼らと一緒に働いたり遊びに行ったりすることに夢中になりました。たとえれば、閉じ込められた部屋から突然朝日のあたる路上に飛び出したように心が解放されたというか、見るものすべてが今までとは違った新しいものに生まれ変わりました。実際、彼女彼らはひとりひとり少し際立った個性を持っていて、その個性をかくさず自己主張する中でぶつかることもいっぱいあるのですが、一方でとても他者への気配りに優れていて、助け合うことの楽しさを教えてくれるのでした。人生の匠というか、コミュニケーションの狩人とは、まさしく彼女彼らのことだと思いました。
それまでも、そして今でもわたしは対人恐怖症で社会性がなく、小学校も一年の時はほとんど学校に行かなかった人間でしたが、彼女彼らは屈託なくわたしを受け入れてくれました。そして、わたしの第2の青春が箕面の街で始まりました。
「国連障害者の10年」が始まった頃で、さすがに障害者市民の問題は障害者市民その人の問題ではなく、街の問題なのだと考える市民も少なからず現れ、わたしもまたその仲間に入れてもらうことができました。そして福祉もまた、そのあとを追うように少しずつ変わってきました。なによりも、障害者が地域で暮らしていくことが偏狭で過激と言われる運動に支えられていた時代から、街の中のさまざまな市民が共に暮らしていくために、当事者市民の思いを組みとりながら、当事者市民の当事者市民による当事者市民のための福祉サービスが市民権を獲得していきました。

中西とも子さんの市会議員選挙に少しだけかかわり、議会報告と彼女の想いや理念を伝える機関紙・チラシを配りに箕面の街並みを歩くと時の流れをキャンバスにした絵画を見るようで、箕面市民だった21年を思い出し、なつかしさとせつなさに胸が熱くなる一方で、新しいお店やお家や道のせいだけでなく、暑い中でも時折涼しさを運んでくれる新しい街の風に勇気をもらったような気持ちになりました。
街は時を渡り時を越え、住む人たちのそれぞれの小さな思い出や夢や希望を抱きとめ、その街の歴史を語り続けているのだと思います。そして、その歴史の中に、箕面市民だったわたしの願いや、たった13日間だけの箕面市民だったわたしの母の人生もあったことを隠し持ってくれていることも…。
中西さんの不器用なぐらいの地道で誠実な議員活動はすでに16年の歴史を持つまでになりました。その活動は多岐にわたっていて、ほんとうに(からだが)エライひとやなと思います。たった一粒の涙からこの街の未来をデザインし、本当に困っているひとの想いに寄り添いながら、箕面の街をよりだれもが安全に、だれひとり傷つかず、助け合いながら共に暮らせる市民の街に変えていく、「たたかう議員」だと思います。
人は想像する以上の未来を得ることができないからこそ、多様な問題を抱えながらつつましく生きる市民の声とともに、より激しくよりやさしくより想像力の翼を広げ、ぶれないしなやかさを持ち続けてほしいと願うばかりです。
折しも、くたびれ始めた東京に対抗し、東京に寄り添う政治勢力が大阪を席巻し、とうとうわたしの住む大阪北端の孤島と言われる能勢町にも忍び寄ってきています。
箕面市もまたその例外ではなく、世界ではすでに過去のものになろうとしている「成長神話」というカンフル注射を打ちつづけ、コロナショックでインバウンドも期待できなくなってもまだ、「大阪を元気にする」と叫んでいます。
その声は箕面市民をはじめ多くの大阪の市民を虜にするかもしれませんが、その舞台になる万博会場やカジノの下は、2008年に幻に終わった大阪オリンピックの過去の負債が埋まっています。マイナスの上にマイナスを足してもマイナスでしかないように、そう遠くない将来、この場所が「兵どもの夢のあと」になってまたぞろぺんぺん草に覆われないか、とても心配です。
だからこそこの特別の夏に、中西とも子さんには体調に気をつけていただき、ミレーの「落穂ひろい」のごとく、路上に置き捨てられたくしゃくしゃの手紙、大きな政治勢力があてにしない小さな手紙をひとつひとつ拾い上げてほしいと思うのです。

ファイト!闘う君の歌を 闘わない奴らが笑うだろう
ファイト!冷たい水の中をふるえながらのぼって行け ファイト!
(中島みゆき「ファイト!」 1983年)

中西とも子公式ホームページ
【号外】元気に!とも子議会ニュース(2020年7月発行)

美空ひばり - 私は街の子 (1951)

吉田拓郎「ファイト!」

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