村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」2

わたしたちが共同生活をしていた家には、同世代の若者がよく訪ねてきました。友だちの友だちというぐあいに口コミで広まったのでしょう。学生運動の闘士だというひとや、政治的な闘争は人間の革命のほんの一部分でしかないと主張するヒッピー、それに高校時代からの友だちでふつうに会社に勤めているひとなどが突然訪れては泊まっていきました。
一宿一飯ではありませんがその日の晩御飯を食べた後、わたしはみんなと話をするのがとても楽しみでした。大学紛争の話や70年安保、ベトナム戦争のことなど、世の中の政治的な動きに疎いわたしには知らないことばかりでした。新聞やテレビとちがい、ひとりの生身の人間の心と体を通ってきた情報はとても生々しく伝わってきました。
学生運動をしているひとたちの中には公安警察に目をつけられているひとたちもいたと思います。そんな彼女たち彼たちにとってわたしたちの家は、かっこうの「隠れ家」だったのかもしれません。そもそも、高校卒業して建築設計事務所につとめたものの半年でやめてしまい、友だちに依存する形で共同生活をはじめた対人恐怖症のわたしにとってこそ、その家は「隠れ家」だったのでした。
毎日仕事に行くひとりをのぞいて仕事もせず、それまでの貯金を崩して生活していましたが、ほとんど外出もせず生活費を5人で分けるとほんとうに少ないお金で暮らすことができました。
わたしはみんなで小さな会社をつくろうなどと幼稚で甘い夢のようなことを言っていましたがそれを実行する努力もせず、実は心を固くしてその隠れ家に閉じこもっていました。
どんな小さなグループでも周りのひとを排除し、遮断することでそのグループを存続させようとする誘惑から自由になれないものですが、わたしたちもまたその例外ではありませんでした。いつのまにか数少ない友人たちとも疎遠になるにつれて、わたしたち自身の関係もおかしくなり、お互いを傷つけあうだけの毎日が続くようになりました。
一年ほどたって、わたしたちは共同生活を解消し、それぞれの人生を歩き始めることになりました。共同生活の前の高校時代にまでさかのぼる数年の間、友人たちとの狭くて濃密な人間関係にたよって生きながらえてきたわたしは、その時はじめて自分ひとりで生きていくことに直面しました。そして、自立して生きていくというこんな当たり前のことができないことをごまかし、この社会からできるだけ遠くに逃げたいという本心を社会の問題にすりかえてきた傲慢さに気づかされました。
嵐が通り過ぎたあと、吹きすさぶ風が叩き壊した窓ガラスの破片が夜の青さに光り、わたしの心には青春の肉片が生臭く散らばっていました。

村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、確固としてあった(と信じていた)「完璧な共同体」は、親友たちからの絶交という一方的な行為によって突然解体されます。なぜ絶交されたのか、多崎つくるはそのユートピアを壊してしまうどんな裏切り行為をしてしまったのか。
多崎つくるはその理由をたずねることができないまま、16年間を過ごしてきました。もし多崎つくるがその理由をたずね、その上で喧嘩をしてでも物事をはっきりさせた上でグループを解消し、絶交していたならこの物語ははじまらなかったでしょう。
多崎つくるはなぜ聞けなかったのでしょうか。わたしは彼があまりにも純情に4人の親友とそのグループの一体感を信じていたために、その濃密な関係が突然解消されること、まして一方的にその理由を思い当たるふしのない自分の裏切り行為のせいにされることなど考えられなかったのだと思います。
その時の多崎つくるの心情は理不尽な仕打ちに対する怒りよりも、それまでに経験したことがない大きな悲しみではなかったでしょうか。ひとは誰しも長い人生の中でそういう場面に何度か直面しますが、あまりにも大きな悲しみは人から言葉も涙もうばうことをわたしたちは知っています。
彼が信じて疑わなかった「完璧な共同体」、深く濃密な信頼関係もまた実はとてももろいものだったことに打ちのめされた彼はそれから一年は自殺寸前まで心が壊れていきます。
そしてようやくまた人生を歩き始めた時、彼はすでに以前のように純情で育ちの良い子供ではなくなっています。それ以後の16年間、他人と深くかかわることを恐れ、他人の心の奥に踏み込むことも自分の心をさらけ出すこともできずに生きてきたのでしょう。
多崎つくるの人物像をなぞってみると、村上春樹の小説すべてに共通しているものがありますが、あれほど女性にモテず、あれほど無難に仕事もできず、またあれほど生きにくさをカバーするに余る処世術を持たず、またあれほど都会的なセンスを持たず、またあれほどおしゃれなお店や音楽を知らず、またあれほど…、とそんなに取り除けば意味がなくなるはずなのですが、その特徴を剥げば剥ぐほど浮かびあがってくる人物像が、わたしにはとてもなじみの深い人物で、ふと気づくとそのひとは私自身のように思えてくるのです。
そして、すでに損なわれてしまった愛、後悔や反省では取り戻すことができない濃密で肉感的な人間関係が心の壁にへばりつき、自信のなさや恐れから新しい人間関係をつくる勇気を持てない多崎つくるを自分自身と確信するひとは私一人ではなく、日本にも世界にもたくさんいて、彼の小説がこれほど世界的にも愛読されるもっとも大きな理由なのだと思います。
その共通しているものは、「どうしようもない生きにくさ」とか「どこかそぐわない自分自身と社会との関係」とか、「コミュニケーションの不可能性」と言っていいでしょうか。実際、ひととひとが向かい合い、一方が涙を流して「解りあえた」と思った時、実はもう一方が屈服させられていることは多々あり、村上春樹の小説にはその微妙なすきまのような空間にコミュニケーションとデスコミュニケーション、正義と悪が用意されていて、ちょっとしたきっかけでそれらがいつでも交換可能であるかのようです。
最近の日本社会の一方的でヒステリックな世論や憎しみに満ちたヘイトスピーチなどにとまどいながら「ちょっと待ってください」と心の中でつぶやくひとたちにとって(わたしもそのひとりですが)、村上春樹の小説はその暴力的な大波に抵抗できる静かな勇気をくれるかけがえのないものです。
村上春樹は最近の講演で「僕の物語と読者の心が共鳴する魂のネットワークのようなものをつくりたい」と言ったそうですが、その魂のネットワークは彼の小説を通じて日本中に世界中に張り巡らされた静かな勇気のネットワークでもあるとわたしは思います。

ジャックス「ラブ・ジェネレーション」
隠れ家時代の愛唱歌といえばまずはジャックスです。1968年のアルバム「ジャックスの世界」はほんとうに画期的なアルバムでした。ジャックスは日本語で歌う日本のロックシーンのさきがけのようなバンドで、わたしはもとより当時の若者から幅広く支持されました。

ジャックス「割れた鏡の中から」
久しぶりに聴くともう一曲紹介したくなり、「裏切りの季節」とどちらにしようかと悩んだ末にこの曲にしました。このアルバムは「からっぽの世界」や「時計を止めて」「マリアンヌ」などの名曲ぞろいで、ただ単にロックシーンだけではなく、当時の社会的な背景が色濃く反映されたカウンターカルチャーとしても注目されました。

ジョン・コルトレーン「マイ・フェバリット・シングス」
わたしたちの隠れ家に時々来てくれたIさんにジョン・コルトレーンを教えてもらいました。彼とはとくに朝方までいろいろな話をしました。学生運動の闘士だった彼は、政治的な問題についても丁寧に話してくれましたが、一方でコルトレーンやジャックスも教えてくれたのでした。そして、世の中の理不尽さを感じていても行動にできない内向的なわたしに、「腰が重いけれどいつか立ち上がる時が来るよ」と励ましてくれました。わたしが豊能障害者労働センターの誕生に立ち会い、障害者の運動をつづけられたのも、青春の時の彼の言葉があったからでした。

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