島津亜矢「人生劇場」・木8コンサート

6月13日、テレビ東京(大阪)の「木曜8時のコンサート」に島津亜矢が出演し、「人生劇場」を歌いました。
 そこで、村上春樹の新作小説についてもあと少し書こうと思っているのですが、ひとまず島津亜矢に戻り、「人生劇場」について書くことにしました。
 島津亜矢と言えば力強い男歌というイメージで見られることが多く(全方位と言っていい彼女の才能からすればほんの一部でしかないとわたしは思いますが)、この歌もそういう男歌として紹介されていましたが、わたしは今回の島津亜矢の歌を聴き、少しちがった感想を持ちました。
 佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の「人生劇場」は、楠木繁夫の歌として1938年に発表されました。もともとは尾崎士郎の大河小説「人生劇場」が原作で、戦前戦後合わせて十数本も映画化されていて、この歌も1938年の「人生劇場 残侠篇」の主題歌でもあったようです。
 愛知県の三州吉良港の落ちぶれた旧家に生まれた主人公、青成瓢吉は政治家になる夢を抱いて早稲田大学に入学し、学生運動に参加したり恋愛をしたりするが、それらに挫折する。父・瓢太郎の自殺による苦しみを乗り越えた瓢吉は作家を目指し、文壇デビューを果たす。やがて日本が戦争時代に突入すると従軍作家となる…。
 小説「人生劇場」は尾崎士郎の中学生時代から始まる自伝的小説で、年代でいえば大正から昭和の戦争直後まで、延々と書き続けられた作品です。その中で「青春篇」と「残侠編」が映画化され、そのなかでも圧倒的な人気となったのが「残侠編」で、この部分は尾崎士郎の創作だということです。
 わたしはこの小説は読んでいませんが、1968年の内田吐夢監督の「飛車角と吉良常」は映画館でも、またそれからずっと後にテレビでも観た記憶があります。
 遊女おとよと駆け落ちし、小金一家の世話で隠れ住んでいた飛車角は、一宿一般の義理から抗争相手の親分を殺してしまいます。途中逃げ込んだ家の庭先で初老の吉良常に自首をすすめられ、刑に服します。その間に心のよりどころをなくしたおとよは飛車角の弟分のような宮川と結ばれます。宮川はまさかおとよが飛車角の女房であることを知らなかったのでした。刑を終えて出所した飛車角は吉良常から事情を聴き、おとよをあきらめるのですが、そこに宮川とおとよが現れます。飛車角は黙って2人を許すのでした。
 その後、宮川が小金の親分を暗殺した弟分の一家に乗り込んでずたずたに切り殺され、飛車角はその無念を果たそうと単身で乗り込むのでした。
 5年前の「人生劇場 飛車角」とともに任侠映画のルーツとなったこの映画は実は純な恋愛映画で、渡世の義理と愛のはざまで生き急ぎ、死に急ぐ、今思えばある意味では男たちの時代錯誤の物語かもしれません。
 飛車角に鶴田浩二、おとよに藤純子、宮川に高倉健、吉良常に辰巳龍太郎が演じたこの映画は内田吐夢の最後の作品で、この監督の様式美が出演者によって見事に体現された映画でした。
 1968年と言えば70年安保闘争の真っただ中でしたが、底辺に右翼的なにおいのするこの任侠映画は多くの若者に圧倒的な支持を得て大ヒットとなりました。
 この映画の主題歌「人生劇場」を歌ったのが村田英雄で、わたしは最初この歌のオリジナルの歌手だと思っていました。浪曲師から歌手になった村田英雄はオリジナルとは全く違う力強い男のイメージをこの歌に付け加えました。
 この歌をどれだけ好きだったのか思い出せないのですが、当時すでにビートルズやボブ・ディランにはまっていたにも関わらず、畠山みどりの「出世街道」や森進一の「命かれても」と同じぐらい、この歌を鼻歌にしていました。

 さて、今回の島津亜矢が歌う「人生劇場」を聴きながら、この歌が力強い男歌というだけではなく、作曲した古賀政男がこの歌に隠した悲しいメッセージを、タイムカプセルを開けるように島津亜矢が届けてくれたように思いました。
 わたしは古賀政男が苦手だったのですが、島津亜矢が歌う「影を慕いて」を聴き、戦争の影がしのびより、軍靴の音が鳴り響きはじめた時代に青い時を過ごした彼が、自殺未遂まで経験したのちに純な心を音楽に託して作られた「影を慕いて」が大好きになりました。
 わたしは今回の「人生劇場」を聴き、すぐさま「影を慕いて」と同じ、古賀政男の切なく暗い心を感じたのでした。この歌から3年後には彼は戦争賛美の歌をいくつも作っています。彼のメロディーには聴く人の琴線にふれるものがあるため、より影響力が大きかったと言えます。それだけに「人生劇場」には、彼の言葉にできない心情がかくされているように思ったのです。
 作詞は佐藤惣之助ですが、「義理がすたればこの世は闇だ なまじ止めるな夜の雨」とか、「時世時節はかわろとままよ 吉良の仁吉は男じゃないか」という歌詞に、原作者の尾崎士郎の心情も古賀政男の心情も表現されているのではないでしょうか。彼らは2人とも、戦後すぐ戦争協力者として批判されることになります。そのことは別にして、「人生劇場」のこの歌詞に込められた彼らの思いは決して戦争協力者としてではなく、自分自身もふくめて国策と世情に翻弄されながら、切なくも小さな抗いをひそかに夢みて息をひそめたひとびとの心情そのものだったのではないでしょうか。
 そして、たった2分程度の短い歌でそんなことにまで思いを巡らせてくれる歌手は、島津亜矢以外にはいないといっていいでしょう。尾崎士郎と十数本の映画の監督をはじめとする制作関係者や名優たちとともに、「人生劇場」が古賀政男の戦前戦中戦後の厳しく悲しい歴史を語り継いできたことを、彼女はあらためて教えてくれました。そして、移ろう時代を背景に、はからずも戦後生まれのわたしの青春時代とかさなる1968年という激動の年に再度届けられ、それからさらに45年の月日がたち、いままた日本社会がヒステリックに危ない方向へと行きそうに思う時、後悔にも似た古賀政男の祈りをたくされたこの歌を島津亜矢が歌い継いでくれることを願ってやみません。そしてまた、それを受け取るわたしたちも後年に責任をみずから問い直さなくていいように、「ちいさな抗い」を表現しなければならないのかもしれません。

島津亜矢「人生劇場」

1968年 映画「人生劇場 飛車角と吉良常」予告篇
わたしはほんとうのところは暴力的な映画ややくざ映画はあまり好きではありませんでしたが、それでも1968年頃はこれらの映画の絶頂期で、高倉健はわたしたち若者のヒーローでした。寺山修司の歌にもあるように、高倉健が悪い奴や権力の親玉をやっつける任侠映画を見て映画館を出てくると、自分が高倉健のように強くなったような気持ちになったものでした。それに比べて鶴田浩二の映画は社会正義をかかげた右翼的な物語が多かったように思います。鶴田浩二はいつもよき友が理不尽に殺された後にたったひとりで悪い奴に立ち向かい、ばったばったと人を斬っていくのですが、そんなに強いのなら、友だちが殺される前に助けてくれたらいいいのにと思ったものでした。

1963年 映画「人生劇場 飛車角/続飛車角」予告篇
この映画が東映の任侠映画のルーツで、美空ひばり映画で知られる沢島忠監督作品です。こちらのほうはおとよが佐久間良子、吉良常が月形龍之介でした。

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