映画「マイ・バック・ページ」・ぼくの「マイ・バック・ページ」2

1966年、ぼくはいい思い出などひとつもない工業高校を卒業しました。生まれたときから父親がいず、母が飯屋をしながら兄と僕を育ててくれました。
「高校だけは行かせたい」と必死に働きつづけた母のおかげでやっと高校に進学できたのですが、母には申しわけないがどうしても専門課程の勉強に興味を持てませんでした。
なんとか卒業して大阪中之島の朝日新聞ビル近くの小さなビルにあった建築設計事務所に就職すると同時に家を出て、友だちと共同生活をはじめました。母と兄の3人暮しからの脱出でした。
そして6月29日、ビートルズが日本にやってきました。1960年代は政治の時代でもありましたが、同時に自由と平和を求める世界の若者たちが音楽、アート、ファッションなどすべてのジャンルで行動を起こし、次々と自分たちの新しい表現を生み出していった時代でもありました。
ビートルズはその象徴で、「ビートルズ革命」ともいわれました。
「ビートルズがやって来る」ことを、日本の大人たちは極端に嫌がりました。警察は3万5000人の警官を配備し、全国各地の教育委員会は生徒がコンサートに行けば退学処分にすると通達しました。
テレビでは識者、文化人が「ビートルズ帰れ」の大合唱でした。
7月1日、ビートルズ公演がテレビで放送されました。友だち3人と大阪市岸里のアパートで共同生活をはじめたぼくたちにはテレビがありませんでした。
ぼくたちの子どもの頃プロレスや相撲などの国民的番組のときはテレビのある家が部屋を開放する習慣があり、その名残りでアパートの大家兼管理人の部屋におじゃましました。
放送が始まるまでの間、管理人とその子どもの中学生はぼくたちの横でさんざんビートルズの悪口を言いました。しぶしぶ好意を示してみたものの、世間の雰囲気そのままに、ぼくたちへの悪意をちらつかせてはビートルズの悪口を言うのでした。
ぼくたちは正座し、息を潜めて楕円形のブラウン管を見つめていました。
そのときでした。「ミスターー、アァアァアア、ムーン、ラァーーイッ」。張り裂けるようなジョン・レノンの声がブラウン管から飛び出ました。その叫びは部屋のよどんだ空気を一瞬にして破り、ぼくたちの心に鳴り響いたのでした。
文句たらたら言っていた管理人親子も思わずだまってしまいました。台風で到着が遅れ、羽田空港にハッピ姿であらわれたビートルズが警察の厳重な警戒のもとで特別車に乗せられていきました。
彼らを警備するというより護送するように深夜の高速道路を走る車を追いかけて、その曲「ミスター・ムーンライト」が流れたのでした。
実はそのころのぼくは友だちほどビートルズが好きでもなかったし、映画は洋画よりは東映の時代劇、歌は三橋美智也と美空ひばりと畠山みどりと坂本九と奥村チヨで、外国の歌なんか興味がありませんでした。
そんなぼくの頑固で保守的な心の殻を、ジョン・レノンはたった一声で破ってしまったのでした。きっとぼくだけでなく、あの瞬間にビートルズ・ファンになってしまったひとがたくさんいると思います。
1万人の少年少女の絶叫で武道館の内外が騒然となる中、ビートルズのたった30分のコンサートがはじまり、終わりました。コンサートは6月30日から7月2日までの3日間に5回行われ、約6000人の少年少女が補導されました。
いまふりかえってみると大人たち、すなわち国家は少年少女たちの絶叫や悲鳴へのおびえと恐怖から、あの異常なまでの過剰警備を断行したのだと思います。
自由、反逆、平和、青春……。政治活動にはおさまらない魂の叫びはブルース、リズム&ブルース、ロックンロールと形を変えて世界中に広がっていました。
その波が日本にも押し寄せ、「軽薄で無思想で、たかが不良の音楽」が社会体制を脅かすことを深く知っていたからだと思います。
実際のところ、政治活動に参加することもしなかったぼくにとって、「インターナショナル」より「ミスター・ムーンライト」の方がはるかに破壊的で革命的でした。
その2ヶ月後、ぼくは勤めていた設計事務所をやめてしまいました。その日、中之島公園の公衆便所に入ると、壁には「日帝打倒・安保粉砕」とエッチな落書きに混じって、「ビートルズ・フォー・エバー」という文字が赤くにじんでいました。

高度成長、ベトナム戦争、安保闘争、東京オリンピック、アメリカ公民権運動など、世界も日本も激動の時代だった1960年代を、ぼくは同世代の学生運動にシンパシーをもちながらも、パッとしない青春を悶々と過ごしていました。
ぼくの1960年代は、いわば逃げつづける10年でした。社会性のかけらもなく、どこにも隠れ家がないのにそれでも隠れ家を探し続ける貧乏でどもりで私生児の少年は、いままでもこれからもこの町もよその町も、いいことなどなにひとつないと思っていました。
世の中すべてから脱出したかった。それも当時流行ったヒッピーなどとちがい、ただ自分という存在を消しごむで消してしまいたかった。
学生運動に没入していた大学生の友人もいて、徹夜で議論することもしばしばありましたが、みんな妙に元気で、それにひきかえぼくには覇気というものがありませんでした。
彼らの口癖だった「帝国主義打倒」、「人民解放」、「革命勝利」といった言葉はよどんだ夜の空気にゆらゆらするだけで、ぼくの心を動かすことはありませんでした。
彼らが熱く語る「革命」が勝利に終わったあと、多くの「人民」がしあわせになるはずでしたが、ぼくのところまではその「しあわせ」がやってこないだけでなく、その「人民」たちにとってぼくは排除されるべき人間とされる確信がありました。
学生でもなく労働者でもなく人民でもなく、のちに登場する市民にもなれそうにないこのぼくはいったい何者なのか、何者になれるのかと絶望的に思いました。
それでもぼくは、今のぼくに助けになることをいっぱい教えてくれた彼らに感謝しています。彼らなりに真実を伝えようとする言葉の裏にある夢見る心はとても純情で希望にあふれていて、陰気でなんの行動も起こさないぼくをはげまし、生きる勇気をくれたのでした。

映画「マイ バック ページ」の二人の人物は、あの時のぼくの切ない願望をつきつめていった先の象徴のような気がします。
寺山修司は「犯罪は失敗した革命である」と言いましたが、ぼくの「何かしなければ」という気持ちは、ひとつ間違えば絶対に渡っては行けなかった河を渡ってしまった梅山という「なりそこねた革命家」にたどり着きます。
沢田の場合は自分も他人も傷つけることでしか出口のない青春の袋小路を、梅山の革命幻想にゆだねることで脱出しようとしましたが、それはサルトルの「存在と無」をわかったふりしていつも持ち歩き、ビルの清掃をしながら「ここより他の場所」をさがしつづけたかつてのぼくの姿でした。
しかしながら、ぼくに青い時があったとしたら、この時をおいてあるはずはないのです。
このふたりはそれぞれ僕の分身であり、ぼくが生きてきた証でもあると思いました。
そして、この映画が若い監督と脚本家、そして若いスタッフによって作り上げられた時、この物語は実話をはなれ、いつの時代にもだれでも一度は通りすぎる青春の1ページとしてこれからも語られつづけることでしょう。

ビートルズ「ミスター・ムーンライト」

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