島津亜矢 瞼の母

わたしがはじめて観た芝居は子どもの頃、場末の芝居小屋で観た「瞼の母」でした。私ぐらいから上の年代の方なら、この物語は「一本刀土俵入り」とともに、いわば生活の一部のように体にも心にもしみわたっているといっても過言ではないでしょう。
もちろん、おそらく10才にも満たないこどもにこの物語の筋書きや演出や役者の演技がどうかなどがわかったはずもないのですが、舞台の明かりに照らされて、今から思えばしわをぬりこめたような白塗りされた役者の顔や首筋が、どこか気味が悪かったことをぼんやりとおぼえています。それは今で言うところの大衆演劇の一座の芝居でした。
その日は、母がわたしと兄を連れて、少しの時間たのしいひと時を過ごすために無理やり時間を絞り出すようして、一家3人が芝居見物に出かけた特別の一日でした。
わたしは楽しくて楽しくて、芝居が終わっても「もう一度見たい」といって母を困らせたそうです。わたしはその時、芝居の中身よりも日常のなかの非日常の空間、その舞台のなかにつくりだされた「ここにはない場所」にずっといたかったのだと思います。
母は妻子あるひとの子どもを産みましたが、こどもたちに肩身のせまい思いをさせまいと、わたしたちを東京の伯父さんからの養子として戸籍をつくろい、父親とも別れました。自分ひとりでわたしと兄を育てる決心をした母は、朝早くから夜遅くまでいのちをけずるように働き、一膳飯屋を切り盛りしていました。
戦争が終わってまだ10年、世の中全体も不安定なグライダーのように曇天の空を舞い、今で言う「福祉」はわたしたちの元には降りてきませんでした。「福祉の世話にはなりたくない」が、母の口癖でした。
幼いわたしには母の苦労がわかるはずもなかったのですが、ともだちの家とはどこかちがう、ただ単に父親がいないというだけではない母子3人の暮しが、子ども心にとても不安でせつなかったことはぼんやりとおぼえています。
そんな日々をつきやぶるようにとつぜん現れた非日常の空間は、わたしの心をまぶしく照らしてくれたのでした。あの光のかなたに、わたしが生きていくほんとうの場所、約束の場所がある、きっとある。そこに行けば、わたしたちはしあわせになれる・・・。

1930年に書かれた長谷川伸の名作「瞼の母」は歌舞伎、浪曲、新国劇、そして大衆演劇とたくさんの舞台で上演され、映画も何本もできました。3倍泣かせますと謳った「母三人」など30本以上のシリーズとなった三益愛子の「母もの」映画とともに、母と子の物語、家族の物語のさきがけとなった、高度成長期の前の日本人の心をささえた昭和の傑作です。最近では渡辺えりが演出し、草なぎ剛が演じて評判になりました。
幼くして母と生き別れ、父とも死別した無宿渡世人番場の忠太郎が、母を探し求め、再会するが、今は料亭の女将になっていた母親は世間体を気にして、やくざになった忠太郎を息子と認めず、再び別れるまでの物語は、単純で最初からねたばれしているのにもかかわらず、同じ場面の同じセリフで、みんな泣いたものでした。
「たずねたずねた母親に、せがれと呼んでもらえぬような、こんなやくざに誰がしたんで」
「おっかさんは、おれの心のそこにいるんだ。上と下の瞼をあわせりゃあ、やさしいおっかぁの面影がうかんでくりゃあ。逢いたくなったら、逢いたくなったら、おれぁ、瞼をつむるんだぁ」
このきめセリフを言うために、芝居はみごとな伏線を役者に演じさせています。母と子の無条件の愛を片方の天秤にのせると、もう片方には確執、断絶、悲しみ、憎しみ、絶望、後悔と、およそひとの感情のすべてが乗ってしまうほどですが、三益愛子の「母もの」がたいていの場合ハッピーエンドでおわるのに対して、「瞼の母」で長谷川伸はもっと深い人間の物語を書いているのだと思います。だからこそ、今はどちらかというと暴力や「やくざ」の話はさけられているのにもかかわらず、演歌によって、あるいは大衆演劇によって語り継がれているのだと思います。
母を求める子どもの感情は永遠の恋人でもありながら「おんな」であってほしくないという、とても複雑なものです。わたしの場合も、そばにいる母親が髪ふりみだして必死に自分を育ててくれていることを子ども心に感謝しているのに、「ぼくのおかあさんは別の所にいるんだ。いつかお金持ちで美人のおかあさんがぼくをむかえに来てくれるんだ」と、ほんとうに思っていたものでした。
物語の進む中で、忠太郎はまだ見ぬ母の姿を幾人かの女性に映しだします。そこにはそれぞれ過酷な時代を生きる女性が登場します。忠太郎はせつなく理想の母親像を瞼に映しながら、義理と人情の世界、斬った張ったの地獄の世界をさまよい歩くのでした。
実際、母親への一途な思いは純情そのもので、もしかして苦しい暮しをしていたならば、やくざ稼業で稼いだお金じゃない百両を手渡そうと思っているのでした。ところが、どうあっても「忠太郎」と呼んでくれない母親に絶望した忠太郎が顔を上げると、そこには母を慕いつづけた純情な子どもはもういません。瞼の母という母親の理想像を現実の母に求めてしまったことで消えてしまった母の幻想を瞼の中に閉じ込め、嵐の吹きすさぶ凶状持ちの道にもどることを決めた忠太郎は、ここではじめて母離れし、自立するのでした。

島津亜矢の「瞼の母」をはじめて聴いた時、涙が止まりませんでした。
いままで、おそらく新国劇か、中村錦之助の映画で観たぐらいの「瞼の母」が、わたしの心の深いところに住んでいたことが、そして、わたしと母とのかなしくもせつない物語を一気によみがえらせてくれるこんな歌い手がいてくれたことを、誰に感謝すればよいのかわかりません。
この歌は島津亜矢の名作歌謡劇場の第一作となった歌で、セリフいりの最初の歌だそうですが、どれだけの練習を重ねたのか、もって生まれた才能なのか、島津亜矢のセリフは独特の語り口で、わたしは今でもその映像を観てセリフの所に来ると涙があふれてしまうのです。他の歌い手さんもカバーされていて、この歌を歌う歌い手さんはみんな一流の歌唱力とそれぞれすばらしいセリフ回しで多くのファンをつかんでいます。
しかしながら島津亜矢にわたしがとびぬけて惚れこんでしまうのはファンだからとは思いますが、あえてなぜかと言えば、他の歌い手さんの場合はいわゆる「ひとり芝居」で忠太郎の心情を芝居の中でとらえていて、忠太郎は無難に芝居の中にいます。けれども島津亜矢の忠太郎はダイレクトにわたしの目の前に現れ、わたしがあたかも芝居の中の母親であるかのように鋭く悲しい目で見つめ、訴えてくるのです。うまく言えないのですが、今はやりの3D的な表現として、芝居を後ろに残して島津亜矢の忠太郎だけが飛びぬけてくるのです。
「ひとり芝居」としての構成の魅力は他の歌い手さんにまかせて、長谷川伸がつくったこの物語のもっとも深いところ、純情な心を持つ忠太郎と、いわばテロリストとしての忠太郎を完璧に演じきる島津亜矢の歌にこそ、「瞼の母」の世界があると思います。ちなみに、渡辺えりの演出による「瞼の母」で、草なぎ剛がその両面を見事に演じたという劇評がありましたが、島津亜矢もまたよく言われる「歌を語る」ようななまやさしいものではない、はげしい怒りとどうしようもない悲しみに打ちひしがれて、どこにも受け入れられないアウトローの世界へと戻っていく忠太郎の叫びが、歌が終わってもわたしの心に響いてしまうのです。
「おっかぁさーん」。

島津亜矢/中村美律子「瞼の母」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です