中村哲さんの箕面の講演会 中村哲さん追悼2

アフガニスタンのこどもたち。
ぼくたちはあなたたちのことを知らない。
ぼくたちは思う。
あなたたちは、
いまどんな夢をみていのだろう。
ひときれのパンと、
つりあうだけの夢を見るために、
どれだけの暗い夜を、
くぐりぬけてきたのだろう。

ぼくたちは思う。
あなたたちの、
かなしみとえらみにあふれたひとみが、
ぼくたちにも向けられているのだと。

それでもぼくたちは思う。
いつの時代にも、
世界中のいたるところに、
あなたたちとつながりたいと、
必死に思うひとびとがいる。
あなたたちの村や町につながる、
せつない空をみつめている。
そしてぼくたちもそうであることを。

ぼくたちは思う。
爆弾といっしょに救援物資を落とす、
アメリカ軍のように、
助けるなんていえない。
ただ、生きていてほしい。

ぼくたちは思う。
あなたたちとつながれないかなしさと、
それでもつながりたいと願うこころを、
とどかぬこころを、
とどけたい。
(2001年11月 豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.140号)

時はめぐり、2011年からの東日本大震災など自然災害の被災障害者支援「ゆめ風基金」のアルバイトを終えた2015年8月22日、大阪府箕面市のメイプルホールで「中村哲さん講演会 in 箕面」が開かれました。
その年の春、中村哲さんの講演会に協力してもらえないかと箕面の友人から電話があり、わたしも実行委員会に参加しました。
実行委員の人たちの中に、わたしが箕面で働いていたころの旧知の人々が少なからずいて、なつかしさとともに箕面を離れてずいぶん時間がたちましたが、箕面の市民活動の広がりと豊かさを実感しました。
講演会は準備期間が短かったにもかかわらず盛況で、500席ある箕面メイプルホールが満席になりました。
地元の人が何を求めているのか、そのためにできることを、現地に根を下ろして理解し、現地の人といっしょに活動してきた中村哲さんの言葉は深く、先入観や常識とされてきたことがいかに机上の空論かと思い知らされました。
井戸掘りから始まり、渇水と洪水を繰り返す大地に川からの用水路を建設し、用水路を完成させました。その工法はハイテクではなく超ローテクで、先進的な機械による工法ではなくアフガニスタンのひとたちが得意とする石積みや、日本の伝統的な工法で堰をつくったりと、アフガニスタンの現地の人々で維持、補修できるものでした。それはまた、一日600人もの人々を雇用することになり、戦争の傭兵になることでしか生活が成り立たなかったひとびとの生活を支えることにもなりました。また用水路の建設が進むにつれて、建設に携わっていないひとびとも本来の農民となって帰ってきました。

「アフガニスタンで事業をおこなうことによって、少なくとも私は日本、そして世界中を席巻している迷信から自由でいられるのです。一つには、お金さえあれば、幸せになれる、経済さえ豊かであれば幸せになれる、というものです。
もう一つは、武力があれば、軍事力があれば自分の身を守れるという迷信です。武力が安全をもたらすものかどうか、丸腰でおこなう用水路建設での私たちの経験が教えてくれます。このような実体験によって、私たちは幸いにも、この強力な迷信から自由です」

わたしの子ども時代から70歳を超える今まで、政治家に限らず大人たちが「武力を持たないで平和を守るなんて空想だ」といわれつづけてきたけれど、紛争の地で活動する中村哲さんの「武力でつくれる平和なんかない、わたしは武力を持たないと宣言する日本国憲法のおかげで安全でいられる」という言葉に勇気づけられたものでした。
そんな中村さんの死から、「やはり武力を持たないとだめ」という声が聞こえてくるようですが、わたしはむしろ長い年月ほんとうに危険な地域で武器を持たず、アフガニスタンの農地を再生する活動をつづけてきたからこそ、地域の人たちの深い理解と信頼を得て、今日まで無事に来られたのだと思います。
しかしながら、その活動すら抹殺してしまう理不尽な暴力がアフガニスタンや周辺地域に広がっていることを、またその暴力を誇示し、ひとびとを支配し権力を誇示する力が世界をおびやかそうとしていることもまた、かなしみと憤りと恐怖とともに知らされました。
講演会の後、中村哲さんを囲んで実行委員会の写真を写しました。
今あらためてその写真を見ると、実行委員会のメンバーだったひとたちのそれぞれの想いが集まって、珠玉の時間を共にしたのだとつくづく思いました。
講演後に記録を冊子にしようという話があり、わたしとSさんとNさんの3人で編集することになり、わたしは冊子の作成もさせていただきました。それが縁でSさんには能勢での活動を助けてもらっています。
Sさんの他にもこの講演会で再会した箕面のひとたちとクラシックコンサートを開いたり、能勢のイベントに参加してくれたりと、ある意味豊能障害者労働センター在職時よりも親しくなったと感じています。わたしは豊能障害者労働センター在職時はかなり偏向していて、最近になってようやく箕面の友人たちそれぞれの想いを理解できるようになったのだと思います。
ともあれ、中村哲さんへのリスペクトと再会した箕面の友人に教えてもらったことが心にずっと残っていて、翌年2016年から始まった「ピースマーケット・のせ」の活動に参加するきっかけになりました。
「ピースマーケット・のせ」は実行委員がそれぞれのこだわりや想いを持ちながら続けているのですが、わたしの心の中では来年の「ピースマーケット・のせ」を、中村哲さんの追悼とすることを決めました。

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