世界のかたちを教えてくれたひと アントニオ・ネグリ追悼

 アントニオ・ネグリが昨年の12月15日に亡くなりました。マイケル・ハートとの共著「帝国」以来、とても気になる人でした。もっとも、わたしはそれ以後の「マルチチュード」、「コモンウェルス」を少しかじった程度でした。
 ソ連崩壊後、新自由主義とグローバリズムが席巻する中、2001年のアメリカ同時多発テロの衝撃から、ネグリたちの国家を越えた「帝国」とそこから現れる「マルチチュード」(労働者でも民衆でもなく国家を越え、グローバル民主主義をつくる人々)が世界を変えるという思想は、それほど政治的でも哲学的でもないわたしにも刺激的でしたが、その分、素人から見ても少し楽天的にも思ったものでした。
 それ以後、ネグリが求めた世界のかたちは時代の果てに遠のき、2008年のリーマンショックが「帝国」を内部から崩壊させ、さらにはロシアのウクライナ侵攻とイスラエルによるガザでの虐殺や各地の内戦・紛争が続く今、世界は「帝国」から先祖返りし、国民国家と専制国家に分断されています。
わたしは豊能障害者労働センターの活動の中から2001年以後、ようやく世界にまなざしを向けるようになり、フーコーからネグリへ、最近は柄谷行人、斎藤幸平へと関心が移ってきましたが、76歳になった今でも理解できないことがとても多くて情けなく思います。やはりわたしはサブカルチャーや歌舞音曲から世界を覗き見るのがやっとのようです。
 それでも、ネグリの存在を知らなかったら私はどうなっていたのかと思い返すと、わたしには難解ではあっても世界のかたちを想像し、ひそやかな希望を持つこともなかったと思っています。むしろ、今になって日本という国の理不尽で散々な政治体制は白い暗闇の中で少数の人々が暗躍する「もうひとつの専制国家」の権力によって成り立っていて、意味は違うのかも知れませんが「小帝国」化した現実の中で緩やかな不自由と生きる権利を奪われていくとても危ないところに来ていると思います。
 ネグリたちが唱えたマルチチュードはまだ現れないのか、それとも姿を現すことはないのでしょうか。