能勢の浄瑠璃

9月12日、能勢の浄瑠璃シアター前の広場で「能勢浄瑠璃公演」がありました。この日は「憲法カフェ・能勢」の打ち合わせ会議がありましたが、時間的に浄瑠璃を観てからでもぎりぎり間に合いそうでしたので、早くに家を出発し、能勢町役場横の浄瑠璃シアターに向かいました。今回は浄瑠璃シアター前の広場が会場と聴き、簡単なセットで上演されるのかなと思って行ったところ、大掛かりな舞台と照明でびっくりしました。お客さんも300人から400人は来ていたでしょうか超満員で、能勢の人々の200年にわたる浄瑠璃への熱い思いが今に引き継がれていることを実感しました。

室町時代に生まれた浄瑠璃のルーツは、鎌倉時代に「平家物語」を盲目の琵琶法師たちが琵琶の伴奏に合わせて語った平曲だとされています。浄瑠璃の名称は浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語「浄瑠璃姫十二段草子(そうし)」から出たもので、その曲節がもてはやされたため、浄瑠璃姫の話以外の内容を語るようになっても、その節回しを浄瑠璃節と呼ぶようになりました。最初は琵琶の伴奏でしていましたが16世紀中ごろに、琉球から三線(さんしん)が伝来し、それを改良して三味線(しゃみせん)ができると、これを用いるようになり、浄瑠璃節は大きく飛躍しました。
能勢の浄瑠璃は、太棹三味線と太夫の語りによって物語が進行する素浄瑠璃で、江戸時代中期、文化年間(1804~1817年)から今日まで200年にわたる歴史をもっています。
能勢の浄瑠璃の特質は、他に類例をみない“おやじ”とよばれる制度にあり、いわゆる家元にあたりますが、違うのは世襲制ではないということです。“おやじ”になる太夫は弟子を5、6人養成し、後継者の育成を行います。新しい“おやじ”が誕生することで、それまで浄瑠璃とは縁のなかったおやじの周りの町民を浄瑠璃の世界へと誘い込む、つまり浄瑠璃人口の拡大につながっています。こうして現在でも200名を越える語り手が存在し、町内各地区に太夫襲名の碑など100余基が残されています。能勢町がいかに浄瑠璃になじみ、親しんできた土地であったかを物語っています。農業のかたわら土地固有の芸事として、農閑期に師匠から稽古を受け身につけていったもので、庶民によって創られ伝えられてきた大切な郷土芸能として、1999年には国の無形民俗文化財の選択を受けています。

語り物の浄瑠璃と、古くから人々の信仰と結びつき、傀儡師といわれる旅芸人の人形回しなどで親しまれていた人形と出会うことで、16世紀末に人形浄瑠璃が誕生します。17世紀には近松門左衛門と竹本義太夫によって今に伝えられる数々の名作が上演され、その演目がすぐに歌舞伎となって上演されるなど、人形浄瑠璃と歌舞伎が江戸時代の大衆芸能を二分するようになりました。
それから現在にいたるまで浮き沈みがあり、特に戦後は存続が危ぶまれるほどになっていたものを立て直し、保存する努力が続けられました。
能勢では1993年に「淨るりシアター」が開館し、従来の素浄瑠璃に加え人形浄瑠璃にも取り組み、人形浄瑠璃文楽座の人間国宝の先生方などの協力を得ながら、町民が中心となって1998年の「ザ・能勢人形浄瑠璃」がデビューし、その後2006年に劇団として発展させた「能勢人形浄瑠璃鹿角座」が誕生し、現在数多くの公演を行っています。

わたしはクラシックやオペラ、ミュージカルとともに能、狂言、歌舞伎など日本の伝統芸能とまったく触れ合わないまま70歳近くになってしまいました。
ところが能勢に移り住んで4年半、まだ2回ほどしか観ていないのですが、能勢の郷土芸能を大切にするひとびとの並々ならぬ熱意が伝わり、語られる物語のよくわからなくても味わい深く、わたしなりにだんだんと好きになってきました。とくに今回の上演をきっかけに、うんと深みにはまっていきそうな気がします。
まずは素浄瑠璃ですが、登場人物を語り分け、感情の機微や情景、時間の流れまでも一人で語り切る大夫と、風のゆらぎや土の匂い、草木の薫りや光のうつろいなど物語の風景を見事に描き、物語る太夫の声をその風景に定着させる三味線に魅了され、とくに話し言葉ではない地文を発する低くひびく声と三味線がいつまでも耳に残ります。
浄瑠璃とはもともと仏教用語で美しい玉のことで、金、銀、珠玉からなる薬師如来の浄土を浄瑠璃世界とする薬師如来の申し子とされた浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語「浄瑠璃姫十二段草子(そうし)」から始まる語り芸・浄瑠璃は、その前身の「平家物語」とともに日本古来の神事や死生観と結びつき、どこかはかなく、運命に翻弄される物語が多いと思います。実際、今回上演された物語も人の生き死にすら理不尽としかいいようがなく、どうしようもない結末をむかえる話がほとんどで、いまの時代から見れば「ありえない」と思うこともあります。
しかしながら、近世の時代にあった権力と岩盤のように硬いヒエラルキーの下でいろいろな掟に縛られ、それを破る者はみせしめとして磔獄門にされてきたひとびとの心の暗闇に蓄えられる血の涙やうごめく欲望は、太夫に憑りつくように一場の非日常の世界で昇華されていったのだと思います。近松門左衛門の戯曲に代表される実際にあった心中事件などを題材にした世話物は、歴史ものとはべつの「記述されなかった歴史」としていまに伝わる叙事詩なのでしょう。
もうひとつ、興味がわくのはやはり人形使いです。そのルーツともいわれる傀儡子(くぐつし)とは、木偶(木の人形)またはそれを操るひとびとのことです。
平安期には狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、中世には一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、えびす舞(えびすまわし)などを演じて、のちの人形芝居の源流となります。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていたといわれます。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれています。
傀儡子らの芸はのちに猿楽に昇華し、操り人形はからくりなどの人形芝居となり、江戸時代に語り物や三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し、その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎へと発展していきました。
寺社との繋がりも強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していきます。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女、梓巫女、市子)として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、大神楽や舞神楽を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師・矢師)など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれています。
ここまで調べると、傀儡師はすべての意味で日本の古典芸能や歌謡曲などのルーツで、いまでこそアイドル全盛時代で芸能界は憧れの下ですが、そのルーツにはそれぞれの時代から排除されたひとびとの血のにじむ職業芸人だったことがわかります。いまでこそそれらのものも「芸術」という上品な言葉で語られることが多いのですが、唐十郎や寺山修司の言葉を待つまでもなく、「河原乞食」を先祖に持つ芸能には暗くてよどんだ時代の膿をはらんだ毒気が潜んでいると思います。
人形にまつわる怖い話はいつの時代にも世界中にあります。以前、リサイクルショップをしている時にヨーロッパの人形や、日本の童子や女人形などを委託されることが多かったのですが、どの人形もたましいを吸い取られるような瞳に魅入られてしまい、目をそらせなくなってしまうことがよくありました。たしかにその人形が以前の持ち主によって大切にされるほど、その持ち主のたましいがとりついているような錯覚を持ちます。
人形浄瑠璃の人形もまた、よく観るとおぞましいほどの寒気すら感じます。表情のない顔、笑っているのか泣いているのかわからず、だれにでもなることができるのにだれにもならない中性的な人形は、だれかに憑りつかれているようなヨーロッパの人形とはまたちがう不気味さがあるのです。
そんな人形がひとたび3人の黒子を擁するとたちまち物語の登場人物の表情を過剰なまでに持つ人間の(ような)顔となり、肩や手の小さな震えまでも観る者に感じさせ、彼女や彼の悲しみや怒りを見事に演じるようになります。
たしかに黒子とよばれる人形使いが操っているだけなのですが、観ていると実は逆転していて物語を生きている人形が黒子を率いて操って舞台をかけめぐりうずくまり、さらにはひとりの人間はもともと黒子をあわせて4人というグループが協力し合って一人であるような錯覚すら持ちます。
ここまで来ると、もうわたしは浄瑠璃のとりこになってしまったようです。たまたま能勢に引っ越してきて能勢浄瑠璃のすばらしい芸能に出会えた幸運をだれに感謝すればいいのでしょうか。
どこの町ともおなじように人口が減りつづけ、バスの本数が減り、学校がとうとうひとつの場所に統合されてしまった将来の限界集落の候補地ともなっている能勢ですが、案外能勢の浄瑠璃一本で活性化する道も開かれるのかも知れません。

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