人道的配慮が新たな差別を生むこともある。障害者殺傷事件の報道に思うこと

神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた障害者殺傷事件の続報は容疑者にかかわるニュースでもちきりです。もちろん、容疑者の生い立ちや犯行に及ぶまでの言動などから未然に防げなかったのかと検証することは当然のことでしょうし、犯行までにかかわった施設、行政、病院、警察の担当者、友人の証言から、もしかすると防げたのかもしれないと反省し、2度とこんな事件が起きないために何をすべきなのかと考えることはとても大切なことだと思います。
しかしながら各テレビ局とも容疑者の非人道な人物像をあぶり出し、視聴者が望む犯人像をなぞる興味本位な報道のように思います。
「障害者は死んだほうがいい、安楽死させるべきだ」、「重度の重複障害者は殺すべきだ、いなくなったほうが社会のためになる」と障害者差別発言を繰り返し、実際の犯行に及んだ容疑者の非人道性と残虐性は極まっています。一方で措置入院後の退院で危険な人物を放置したことについての関係者への責任が問われ、大麻を使用していたこともふくめて容疑者の精神鑑定が実施されることになれば、一斉に非難の声が上がることでしょう。一つ間違えると精神障害者全体に対する差別と偏見が助長されることにならないかとても心配です。

わたしは加害者に関する情報がどんどんと提供されるのに対して、命を奪われた19人をふくめて被害者の情報が著しく少ないことをとても異様に感じます。
事件のあった障害者施設「津久井やまゆり園」には19歳から75歳の約150人の知的障害者が入所し、そのうちの約40人が60歳以上とみられ、全国の障害者施設と同様に重複障害を含む重度化と高齢化が進んでいます。
死亡したのはいずれも同施設の入所者の男性9人、女性10人で、年齢は19歳から70歳。また、負傷したのは施設職員男女各1人を含む男性21人、女性5人と公表されています。
被害者の名前について神奈川県警察は、「施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」として、公表しない方針を明らかにしました。
それに対して障害当事者や障害者運動団体が疑問を感じ、「障害者差別」になりかねないと危惧しています。わたしも家族への配慮や人道上の配慮という理由そのものに、加害者が障害者を「社会の役に立たない、いてはいけない存在」としたのとはまたちがう「隠さなければいけない存在」とする日本社会の障害者への差別が根底にあると思います。
理不尽にいのちを奪われた19人の無念さや、からくも命は助かったものの負傷された26人のひとたちの恐怖、そして負傷はしなかったものの悪意と憎悪による殺戮と暴力が自分たちに向けられたことにどれだけのショックを受けたのか、知る由もありません。
被害にあった個人ひとりひとりの存在がおぼろげにもみえることすらなく、ただ数字でのみ語られるとしたら、容疑者の異常な犯行という特殊性の背後に潜む障害者差別から目を背けることになるのではないでしょうか。
わたしは決して犯行が起きた障害者施設の運営の在り方や職員の資質などを問うつもりは全くありませんし、いくつかの証言にあるように地域とのかかわりをつくったり、散歩に出たりと閉鎖性を少しでも和らげる努力がなされていることも事実だと思います。
しかしながらそれでもなお、誤解を恐れずに言えばわたしは「入所施設」という一般社会から隔離された密室であったからこそ、こんなに多くのいのちが1時間ぐらいの間にうばわれてしまったのだと思わずにはいられません。
夜中の手薄な管理体制であったとしても、まず容疑者は5人の職員を結束バンドで手すりに拘束しました。その行為の間で職員が抵抗できなかったのかという疑問が出てもそれはその場にいなければわからないわけですが、少なくとも犯行の場がたくさんの利用者と数少ない職員という厳然と存在する階級制のもと、社会とは隔離された入所施設で人生を過ごす密室だからこそ犯行を可能にしたという一面を拭い去ることはできないのではないでしょうか。
そこのところをさけて加害者情報ばかりが増殖し、時々匿名で犠牲になった障害者の家族のコメントが記事になるぐらいで、注目すべきは当事者の友人のコメントは皆無、負傷した障害者のコメントも取り上げられません。どれだけ彼女たち彼たちが社会的なつながりを絶たれているのかという実態を取材し、障害者の入所施設の存在や社会的な位置づけに切り込んだ報道は皆無と言っていいでしょう。すべては人道上や家族への配慮として、個々の障害者を「弱者」と一般化し、「弱者の存在を抹殺する非人道的で残虐な犯行」と片づけてしまうことで、容疑者に刷り込まれてしまった障害者差別を明らかにすることからマスコミもわたしたちの社会も逃げてしまったのだと思います。
障害者の入所施設で人生を過ごす障害者は13万人といいます。一般に普通の社会生活を送れない重度とされる障害者の入所施設は親元にいられなくなったとか親が亡くなったという事情から必要とされ、障害者を保護するという役割の裏に、障害者を社会から隔離するという役割があることもまた事実だと思います。
わたしはどんなに重度と言われる障害者でも「あってはならない存在」でないとするならば、極々せまい人間関係に閉じ込められず、友人との出会いや恋愛、他者とのかかわりの中から生まれる夢や希望が育てられる機会もまた確保されなければならないと考えます。
わたしの少ない経験ですが、かつて豊能障害者労働センターに在職時に重度と言われる障害者の授産施設に行ったとき、そこで「働いている」障害者の方が私の仲間の障害者スタッフよりも働き者でびっくりしたことがあります。このように書くと豊能障害者労働センターの当時の障害者スタッフに失礼なのかもしれませんが、率直にその授産施設に通う障害者のどこが重度なのか、本当に理解できなかったのです。
わかったことは、重度であるかないかは周りの関係によって決まるもので、どんなに重度と言われる障害者でも友人や友人のグループと、周りの地域との関係があれば一人暮らしやグループホームなどで、地域の市民との日常生活がはぐくまれる自立生活かそれに準ずる暮らしができるということです。
容疑者に「死んだほうがいい」と思わせた重度障害者の存在は、わたしたちの社会の都合でつくりだされたもので、入所施設はその受け皿として存在していることを、この事件はあらためてわたしたちに突き付けたのだと思います。

人道的配慮が新たな差別を生むこともある。障害者殺傷事件の報道に思うこと” に対して2件のコメントがあります。

  1. 蒼士 より:

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    こんにちは、蒼士です。
    この障害者に対しての今回の事件は、社会がおかしくなってきていることが現れてのことではないかと思いました。
    最近はネットでつながっていますが、自分の考えと違う人との交流は前より少なくなってきているそうです。考えが同じ人としかつながらないからです。
    便利になると、その分何かを失っているような気がします。
    それでは応援して帰ります。

  2. tunehiko より:

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    蒼士様
    コメントありがとうございます。障害者にかかわる事件について書くことはほんとうにむずかしいです。とくに家族と障害者本人との関係は、現実に障害者への差別が根強くある中で、家族が守ってきたということが実際はあるわけで、「家族にしかわからない」と、よく言われたものです。そんな配慮をしていると、ほんとうの問題がどんどん遠くに行ってしまいます。

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