田島隆と池田安友子の「二人でうち合わせ」・桜の庄兵衛ギャラリー

ひとは長い歴史の途上で、いつ音楽を発見し、発明したのでしょうか。
その起源についてさまざまな説があるものの確実な確証がないまま、音楽はわたしたちの暮らしになくてはならないものになっていきました。
最近のコロナ禍のさ中、もっともその活動が困難なジャンルの一つとして音楽活動があります。人はパンのみで生きられないと知ってしまったわたしたち人間にとって、自由と隣り合わせにある音楽がどれだけかけがえのないものであるかを思い知ったこの世界的・歴史的な大惨事は、後世のひとびとに代々語り継がれることになるでしょう。
9月20日、桜の庄兵衛ギャラリーで開かれた田島隆のタンバリンと池田安友子のパーカッションは、たとえば世界中の大地ががれきに埋め尽くされてしまった後、歴史がもう一度歩みを始める瞬間に立ち会っているかのように、静かに、とても静かに始まりました。
「はじめに言葉ありき」になぞらえて言うならば、「はじめに沈黙あり」といえばいいでしょうか。言葉による音楽ではなく、田島隆が世界のいろいろなタンバリンをたたき、こすり、ゆすり、はじくと、このひとの指はどうなっているのかとびっくりしてしまう超高度な指さばきからこぼれ、湧き上がる音たちが長い眠りから覚めた沈黙の空間を繊細に震わせます。そこに池田安友子のコンボやジャンベや法輪などから生まれたいとおしい音たちがまるで待ち合わせしていたかのようにタンバリンの音たちと出会い、楽しくおしゃべりするのでした。
それは愛の歌を朗々と歌い上げるよりも深く、言葉では決して届かない恋する者たちのコミュニケーションへの渇望が、壊れてしまった世界をもう一度つくりだそうとするようなのです。
わたしたちは子どもの頃、親からも学校の先生からもまわりのおとなちたちからも、大きな声でさわいではだめ、静かにしなさいとか、物音を立ててはいけないとか言われてきましたが、二人の演奏を聴いていて、物音を立ててもいいんだと教えられたような気がします。二人の演奏は音楽のルーツを旅しながら、こんな音出そうかなとか、この楽器はこんな音が出るんだとか、まわりすべての物音は生きる喜びに満ち溢れていて、世界中のそんなプリミティブな音楽を発見することこそが、武器を持つことでは決してかなえられない平和への道につながるのだと実感したのでした。

以前に一度、桜の庄兵衛ギャラリーでピアノ・宮川真由美、アコーディオン・佐藤芳明とトリオで演奏した田島隆のタンバリンを聴いた時もびっくりしたのですが、今回の池田安友子との夫婦共演による打楽器同士の演奏は、バイオリン、ギター、ピアノなどの楽器と共同でつくりあげる音楽とは別次元の、余分なぜい肉をそぎ落としたシンプルで緊張感にあふれたものでした。
ずっと以前に、NHK・Eテレ「スコラ・坂本龍一 音楽の学校 アフリカ音楽」を観ていて、人類誕生の地ともいわれるアフリカで音楽も誕生したのではないかという仮説が真実かも知れないと思いました。
広大なアフリカ大陸のかけ離れた集落で、さまざまな民族の宗教行事などで歌われ、奏でられた歌や音楽が共通のリズムを持っていて、それをポリリズム(複数のリズム)と呼ぶそうです。統一したリズムを五線譜にとじこめていく音楽ではなく、同じリズムを遅らせて重ねたり、ちがうリズムを同時に刻みながら高めていくような、ある種の祝祭性を持っていて、それは奴隷貿易によって南北アメリカにも伝播していったようです。
人間が誰かに何かを伝えようとしたとき、あるいは「わたしはここにいる」と他者に伝えようとする時、例えば最初は人骨や動物の骨を叩いたり穴をあけて笛にしたり、森や山や大地や川と、鳥や風がかなでる地球の音楽を発見したのだとしたら、叩いたりはじいたりする行為で人間の心臓の鼓動を真似たとされる打楽器を発明したことは音楽そのものを発見したこととつながっているのだと思います。
そして、タンバリンなど世界の打楽器の打面や三味線などに、猫や蛇やヤギや牛など、さまざまな動物の皮をはいで使われていることは、ある種の音楽が人も含むいきものたちの生死と深くむすびついていたり、祝祭や儀式や祈りから音楽が誕生したことを教えてくれます。だからこそ人は切実に愛と希望と夢に満ち溢れた、生きるための音楽を発明したのだと思います。
音を出す楽しさとともに緊張の糸がはりめぐらされた桜の庄兵衛ギャラリーに身を置きながら、わたしはなぜかずっと以前にNHKで放送された初代高橋竹山のドキュメンタリーを思い出していました。「三味線はけもののいのちをいただいてできたものだから」と、いのちある三味線とふたりで何十年ものあいだ彷徨をつづけた高橋竹山もまた、生と死を大きくつつむ広大な音楽の荒野を旅したのだと思いました。
二人の演奏は、そんな音楽のルーツや成り立ちをたどり、人間の殺伐とした争いと支配と征服の血塗られた歴史の地下深く、幾億ものひとびとが時も場所も違っていても、たったひとつの願い…、幸せでありたい、自由でありたいと願い、ここよりほかのもうひとつの場所、そこでは生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能なものと不可能なもの、高い所と低い所、そうしたものがもはや互いに矛盾したものとしては知覚されなくなるような、精神のある一つの点(アンドレ・ブルトン)へとたどり着き立ち戻る旅に、わたしたちをいざなうのでした。

この日はわたしに音楽を教えてくれた豊能障害者労働センターの石原さんと行ったのですが、わたしよりも30歳も若い彼をライブなどに誘っていく時は、彼がどう感じるのかなとか、楽しんでくれているのかなとか心配してしまうのですが、コンサートが終わった後、普段は決してしないアンケート用紙に何か書くほど喜んでくれたことをうれしく思いました。
そのあと、酒を飲みながら、「こんなひとたちがいたんやね。災害を呼び起こすような演奏はやめてほしいわ」と、仕事のかたわら自然災害による被災障害者救援活動を続ける彼なりの変化球で最高の褒めことばを語ってくれました。
こんな素敵な時間と場所を用意してくれた、桜の庄兵衛さんに感謝します。

 二人で打ち合わせ 池田安友子,パーカッション 田島隆,タンバリン

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