安全神話が破られた今、もう一つの安全は神話にならないのか

核を持つ危険な社会から解放され、原発のない開かれた社会へと希望をつなぎたい

老人は海から生まれ海に育ち
海に還ることしか考えたことはない
中山千夏作詞・小室等作曲「老人と海」

 国と東京電力は8月24日、福島第一原発1~3号機(福島県大熊町、双葉町)の「処理水」の海洋放出を始めました。
 溶け出した燃料を冷却するため日々発生する高濃度の放射性物質を含む「汚染水」を、多核種除去設備「ALPS(アルプス)」で処理(放射性物質除去)し、除去できない「トリチウム」については放出前に海水で薄め、濃度を国の基準の40分の1(1リットルあたり1500ベクレル)未満にするとしています。国際原子力機関(IAEA)も2023年7月、人や環境への影響は「無視できるほど」として、「国際基準と合致する」との報告書をまとめ、日本政府に事実上の「お墨付き」を与えました。
 処理水をどうするのかを丁寧に議論されたかは疑わしく、早くに海洋放出と結論付けてしまってほんとうによかったのかと思います。トリチウムは既存の原発からも排出されていて、福島の年間の排出予定量は中国や韓国などの原発よりも少なく、政府は「科学的に問題はない」と繰り返します。
 しかしながら、正常に運転する他の原発の処理水はあくまでも炉の外側の冷却水で、福島原発の場合は、炉の中の溶けだした燃料を直接冷却する汚染水で、比較する対象とはなりえないのではないでしょうか。
 さらに、ALPSで処理できない放射性物質はトリチウムだけではなくたくさんの放射性物質が残っているそうで、それらもトリチウムと同じように薄められるので大丈夫と言うのも、ほんとうなのでしょうか。
 わたしたちが持つたくさんの素朴な疑問と不安は、科学的根拠、専門家の「だいじょうぶ」を盾に風評被害(加害)とされ、「事故から12年の間ずっと困難な日々を送らざるを得なかった福島のひとたち、漁業関係者、農業関係者の気持ちを踏みにじっていいのか」と迫られます。
 まてよ、どこかおかしい。非難されるべきは、70年以上も原発の安全神話を押し付け、事故のリスクはないとしてきた国や電力業者や専門家たちではないのでしょうか。

安全神話の中では、10メートルの津波が来るリスクを考える事すら許されなかった

 「原子力は安全で、夢のエネルギー」と、過疎化で将来の展望に悩みまどう地域に最適なまちづくりと原発誘致を推進し、多額のお金をばらまいてきた結果、東日本大震災前には世界でも有数の原発大国になっていました。
 その間に1979年のスリーマイル、1986年のチェルノブイリと重大な原発事故がありましたが、日本の原発技術は世界でも最高のレベルで、事故は起こらないとされていました。
 福島原発事故は地震で非常停止した原子炉を冷却するための外部電源が津波によって全停止したため、メルトダウンになってしまい破裂してしまったのですが、東電は10メートルを超える津波は予想できなかったと言っています。
 しかしながら、日本のような地震大国で原発のシステムを稼働するなら、万が一に備えてシュミレーションをしてその対策を講じるのが当然のことでしょう。東電に限らず、電力会社の経営が私企業の利益追求だけと考えたわけではないのなら、東電の社員のひとたちもまた、万が一のリスクについて考え、話し合われたことがあると信じますし、実際に起きてしまった事故を防げたかも知れないと深く後悔されているとも思うのです。
しかしながら、東電は事故の9年前の2002年に、経済産業省原子力安全・保安院(当時)から、福島県沖地震による津波発生時のシミュレーションを行うべきだと指摘されたにもかかわらずこれを拒否したそうです。このとき拒否した理由は、福島県沖地震の発生についてしっかりした科学的根拠もないことと、時間と費用がかかるというものだったそうです。
 この言い分が通ってしまったことに愕然としますが、国や専門家と言われるひとたちがそれを許したという事実もまた、重く受け止めなければならないと思います。
 まったく専門的な知識のないわたしですが、東電もふくめ、電力会社が原発の推進を国策とする国への依存と、国もまた日本経済の基礎的な事業として原発を推進してきた相互依存の構造がお互いのセキュリティの甘さを支え、おたがいの責任をあいまいにし、起こりうるリスクを無視した結果、対策を講じるより目先の利潤と政治的野心で原発資本市場経済を動かしてきたのだと思います。
 福島県双葉町に設置された「原子力 明るい未来の エネルギー」 の標語が書かれた看板は撤去されたそうですが、たしか原発立地の町の商店街のアーケードに、同じような標語が掛けられていたと記憶します。
 原発の安全神話をこの国の隅々まで、人の心の隅々まで深く広く浸透させ、原発立地地域にお金をばらまいた結果、たしかに役所や文化ホールや福祉施設が立ち並びましたが、住民自治で町おこし村おこしすることをあきらめてしまった場合もあったこともまた事実ではないでしょうか。

核兵器に転用できる原発を持ち続けることが抑止力になるという幻想が、攻撃の標的になる現実を生み出す

 第二次世界大戦後、自由民主党の結党にあたり、アメリカのCIAがかなりの資金提供したという事実がありますが、戦後民主主義の上澄みの下でもう一つのストーリーを歩んできた自民党政治のもと、アメリカの「原子力の平和利用」とつながった原発推進施策は安全神話のドレッシングをふりかけ、原発利権を膨張させてきたのだと思います。
 福島原発事故によって安全神話が破れたものの、原発の利権構造を残したまま放射能汚染を過少に伝え風評被害を声高に喧伝することで、将来に渡る重大な問題の解決にむけて研究調査、努力している人々が警鐘をならすと「科学的根拠がない」と退ける。そしてロシアによるウクライナ侵攻によって息を吹き返したように原発の再稼働から新設までも声高に宣言するひとたちがめざしているのは、結局のところ民の幸せよりもパックス・アメリカーナと明治維新以後の資本膨張体制が合体した国体にあるのだと思います。
 「処理水」の海洋放出は、保管するタンクが満杯になるという切羽詰まった事情と言うより、福島原発事故による今もそしてこれからも増えるおびただしい犠牲の上に、原発帝国主義を再構築に踏み出す宣言なのでしょう。そのためにはかつての科学的根拠のもとでの安全神話にあやまちはなかったこととし、新たな「科学的根拠」にもとづいた処理水の海洋放出を安全とするキャンペーンを翼賛体制で進めなければならないのでしょう。
 実際のところ、今後廃炉が終わるまで30年も40年も続くと思われる処理水の海洋放出が安全なのかそうでないのか、わたしには到底わからないですし、もしかすると誰もわからないことではないでしょうか。減衰期間が100年どころではない物質もあるという放射能汚染は通常の運転でもその影響がわからない上に、メルトダウンと言う最悪の事故の影響を考えれば、やはり原発はコストもリスクも高すぎると思うのはわたしだけではないと思うのです。
 福島の事故を目の当たりにして、当時のドイツの首相が原発に頼らない社会へと大転換したのにならい、わたしたちもまた原発のない開かれた社会へと希望をつなぎたいと思います。ロシアのウクライナ侵攻でパンドラの箱が開けられたとしても…。