歌いながら醒めよ、もっと歌を! 美空ひばりのクレオール音楽と島津亜矢

11月25日の日曜日の夜、NHK・BS放送「新・BS日本のうた」に島津亜矢が出演しました。わたしはこの日出かけていて、録画を取るのも忘れていたのですが、この番組はありがたいことにその週の土曜日に再放送してくれていて、おくればせながら観ることができました。島津亜矢の演歌・歌謡曲を聴くのは久しぶりで、とても新鮮に感じました。
島津亜矢のここ数年の進化には目をみはるものがありますが、当然のことながらその進化は突然やってくるものではなく、若い頃からの不断の努力はもちろんのこと、持って生まれた潜在的な才能が人との出会いや音楽的冒険によってある時突然花開き、そこからまた新しい才能が蓄積され、またある時に開花するといったスパイラルな運動が、島津亜矢の歌の軌跡を豊かにしてきたのだと思います。そして、なによりも歌手として決して順風満帆とは言えなかった彼女の若い時からその才能を見出し、「遅れてきた演歌歌手」から出発し、オールラウンドなボーカリストへと果敢な冒険をしてきた彼女をあたたかく見守ってきたファンの方々に感謝あるのみです。
さて、今回の放送で歌った「越後獅子の唄」、「人生劇場」、「悲しい酒」の3曲は、それぞれ歌に隠された物語も時代も違うのですが、島津亜矢は見事に歌い分けました。彼女のもっとも際立った進化は、若い頃からの高音に隠れていた低音から中音が存在感を高めただけではなく、その艶のある湿っぽい声が歌全体を絶叫から語りへと大きく変化させたことだと思います。
1曲目の「越後獅子の唄」は「東京キッド」や「悲しき口笛」、「私は街の子」などとともに戦後の混乱期の孤児たちの過酷な現実と切ない夢を歌った美空ひばりの初期の名曲のひとつです。孤児たちが街にあふれ、大きな社会問題になっていた当時、彼女彼らと同じ年齢の美空ひばりが歌うことは時代が求めた必然だったのでしょう、いずれも大ヒットしました。
「越後獅子の唄」はその中でも異色で、孤児たちによる門付け、大道芸の越後獅子をモチーフにしています。越後獅子は角兵衛獅子ともいわれ、越後国西蒲原郡、月潟(つきがた)地方から出る獅子舞で、正月などに子供が小さい獅子頭(がしら)をかぶり、高足駄をはき、身をそらせ、さか立ちして、手で歩くなどの芸をしながら、銭を請い歩きました。
江戸中期から後期に盛行を極めましたが、明治時代には児童虐待と学校にも通わせないことに対する嫌悪感から、次第に忌避の対象となっていきました。そして昭和8年(1933年)の「児童虐待防止法」によって、児童を使った金銭目的の大道芸そのものが禁止となり姿を消すことになりました。
戦後に孤児たちが越後獅子になったという史実はありませんが、わたしの子どもの頃は「いい子にしないとサーカスに連れていかれるよ」と日常的に聞かされましたので、戦災孤児の問題が越後獅子に重なるようにあったのではないでしょうか。
ともあれ、門付けや瞽女、かわら乞食など、社会の底辺で理不尽な暴力や抑圧にさらされたひとびとから生まれた大衆芸能の本質をふくむ越後獅子の物語は、時代の大きな悲しみを表現するだけでなく、その歴史を通して日本社会の暗闇を口から口へ、体から体へと伝承してきたのでした。
作詩の西条八十は作詞家としても活躍しましたが、フランス文学者でランボーの研究者でもありました。また象徴派の詩人としてポール・ヴァレリーらとも交流がありました。作詞家である前に詩人だった西条八十は藤浦洸とともに、当時の歌謡曲をある意味大衆芸術にまで高めた功労者でした。
また、作曲者の万城目正もた今の演歌にもなく、またもちろんJポップにもない時代の匂いというべきか、戦前の日本の原風景と戦後の動乱期の埃っぽい空気を共存させた不思議なメロディーを次々と送り出しました。
わたしは島津亜矢による新しい演歌・歌謡曲のルーツは戦前から戦後すぐのこれらの歌謡曲に求められると思っています。
島津亜矢はこの時代の歌謡曲を歌える数少ない歌手の一人ですが、どの歌も時代の匂いを隠した風景を持っていて、「懐メロ」とすることをこばむ絵筆をもっています。現存するオリジナル歌手がいなくなってしまったこれらの歌をカバーすることは、彼女たち彼たちの音源を聴くことにとどまらず、どの歌にも歌そのものがその誕生から巷に流れ、消えて行った記憶を持っていて、島津亜矢は「歌を詠む力」をもってその歌の記憶にたどり着き、それを丁寧に解きほぐし、わたしたちに届けてくれるのです。
少し大げさに言えば、マルクスの「歴史は二度来る、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という名言になぞり、「歌は二度来る、一度目は時代の恋歌として、二度目は時代の挽歌として」といえるのかも知れません。
2曲目の「人生劇場」は彼女のいわゆる「男歌」の十八番で、今まで何度もコンサートや歌番組で歌い、アルバムにも収録されていると思います。
若い頃から歌っているこの歌の場合、それぞれの年代の音源を聴くことができるので、島津亜矢の進化がはっきりとわかるうれしい一曲です。この歌では若い頃からの高音の伸びと心地よい破壊力が前面に出ていますが、ここでも獲得した低音がこの歌に奥行をもたらし、短い歌の中に込められた戦後民主主義で途絶えたはずの日本社会の政治的な暗闇まで表現していて、ある意味歌の持つ怖さをここまで歌える歌手もまた類を見ません。
わたしはこの歌に侠客・アウトローが国家と対峙しながら人間の正義を「義理と人情」に置き換えることでしか生きていけなかった時代の不幸を感じています。それは国定忠治や番場の忠太郎、平手造酒、駒形茂平などの「滅びの美学」に通じると思います。
尾崎士郎の自伝的小説「人生劇場」から、はかない恋とすぐそこにせまる軍靴の音に世を憂い、絶望から自殺をはかった古賀政男の切ないメロディーが生まれた時、日本は引き返せない戦争の道へと突き進み、日本とアジアの人びとのおびただしい死体を累々と重ねました。
その骨はまだアジア各地に残されたまま帰るべき国もなく、その魂は懐かしい故郷を無くしてしまいました。戦後、民主主義国家を標榜しながらも新派、新国劇とつながり、東映やくざ映画で復活した人生劇場スピンオフ、「飛車角と吉良常」はくしくも70年安保の一部の左翼活動家にも右翼活動家にも精神的支柱とされ、村田英雄のカバーでよみがえった「人生劇場」は路石の下の戦前の暗闇で心震わせた古賀政男の叫びが聞こえるようです。そして島津亜矢はこの短い歌の中にある壮大な悔恨と切ない希望を見事に語りつくしてくれるのでした。
3曲目の「悲しい酒」は古賀政男特集の最後に歌いました。
島津亜矢は「乱れ髪」や「柔」、「愛燦燦」、「川の流れのように」などとともにこの歌を若い頃から歌っていましたが、長い間先輩の歌い手さんの影に隠れて目立ちませんでした。
今回の番組を観ていて、ようやくこれらの名曲を島津亜矢が先頭に立って歌う時がやってきたのだと実感します。
この歌はよくも悪くも古賀政男がつくりあげた「現代演歌」の典型的な歌で、同時に美空ひばりを「演歌」に封印してしまった一曲でもあります。
かねてよりわたしは美空ひばりを「演歌」の枠に閉じ込めてしまったことが演歌を衰退させてしまったと思っています。「越後獅子の唄」や「東京キッド」など初期の土着型ブルース・ジャズから百花繚乱の歌謡曲を経て、ポップスの台頭から無理やりつくり出されたともいえる「演歌」というジャンルは、不幸にも無尽蔵の才能を持っていた美空ひばりのさらなる可能性を閉じ込め、彼女の歌手人生の終着駅になってしまいました。
島津亜矢はその終着駅を始発駅に変え、美空ひばりのやり残したところから新しい音楽的冒険の旅にすでに出発したのだと思います。他の歌い手さんたちが演歌の女王としての美空ひばりをカバーしている間に、島津亜矢はジャズやブルースなどのワールドミュージックに日本の土着音楽を融合させた美空ひばりのクレオール音楽を引き継いでいたのでした。
美空ひばりの息子の加藤和也氏は、彼の生い立ちや時代の波に翻弄されたファミリーについて綴った自著「みんな笑って死んでいった」(文芸春秋刊)でこう書いています。
「美空ひばりはけっして演歌歌手ではなく、時代が一番求めている音楽や歌を、先頭に立ってパフォーマンスするアーティストなのだ」と…。
まったく同感で、その意味において島津亜矢は美空ひばりを引き継げるだけでなく、引き継ぐ宿命を負わされた数少ないボーカリストの一人なのだと確信します。
ボーカリストとしての島津亜矢は、すでに時代の向こう側でスタンバイしています。けれども彼女が歌う歌がないのです。阿久悠も星野哲郎も船村徹もすでにいなくなった今、彼女の歌はJポップの膨大なジャングルをかきわけ、時には海を越えて、いつか彼女の前に現れる新しい歌を、時代が求める音楽を、わたしたちも待ち続けようと思います。
歌いながら醒めよ、もっと歌を!

島津亜矢「人生劇場」

島津亜矢「悲しい酒」

人生劇場 飛車角と吉良常「予告篇」

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