島津亜矢「一本刀土俵入り」と長谷川伸

今日放送の「BS日本のうた」で島津亜矢が「男の土俵」と「一本刀土俵入り」の2曲を歌いました。「一本刀土俵入り」は短くなっていて、少し物足りなかったですが、それでも2曲を熱唱する島津亜矢を観ることができました。
「一本刀土俵入り」は1992年5月に発表され、この年「瞼の母」、「一本刀土俵入り」「関の弥太っぺ」と、長谷川伸の名作を原作としたせりふ入りの歌のシリーズで、今につづくきっかけとなった作品のひとつです。

相撲取りの駒形茂兵衛は、才能がないと親方から見放されて帰郷する途中、水戸街道取手(とりで)の宿にやってきます。一文無しで、飢えて途方に暮れている茂兵衛を、宿屋の2階で見ていた酌婦お蔦は、事情を聞いて、くし、かんざし、巾着を与え、もう一度江戸に戻って修業するよう励まします。お蔦の人情に涙ぐむ茂兵衛は、きっと横綱になると約束して旅立っていきます。
それから十年後。娘と細々と暮らすお蔦の元に夫・辰三郎が戻ってきて喜びのつかの間、辰三郎はイカサマ賭博で追われる身となっていました。親子3人が逃げ出そうとしていた時、茂兵衛がたずねてきますが、横綱になる望みを果たせず、やくざになった茂兵衛をお蔦は思い出せません。彼が恩返しに金を差し出し立ち去ろうとすると、土地の親分儀十一味が家を取り囲みます。奮戦の末、角力上りの儀十と刀を捨てて四つに組んだ茂兵衛の姿に、お蔦は十年前の彼を思い出します。儀十一家のやくざたちを叩きのめし、3人を逃がす時、茂兵衛が言った名文句が次の言葉です。
「お行きなさんせ。仲よく丈夫でおくらしなさんせ。ああ、お蔦さん、棒ッ切れを振り廻してする茂兵衛の、これが、10年前に櫛、簪、巾着ぐるみ、意見をもらった姐さんに、せめて見てもらう駒形の、しがねえ姿の土俵入りでござんす」

歌舞伎や新国劇で上演され、映画や浪曲にもなり、今でも大衆演劇の定番であるこの物語は、演歌の世界でも多くの歌い手が歌いついできました。
島津亜矢の「一本刀土俵入り」は、初代京山幸枝若の歌で、島津亜矢に合っていると思います。「瞼の母」はまた別の機会に書こうと思いますが、彼女は男の歌が似合うというより青年(少年)の歌が似合うように思います。
「瞼の母」は親子、「一本刀土俵入り」は他人と設定がちがいますが、長谷川伸のこの2つの物語はいずれもいわゆるやくざになった青年(少年)が主人公です。一方は母親、もう一方は昔情けをうけた年上らしき女性に、変わり果てた姿になった経緯を背負いながら名乗り出るが、相手に思い出してもらえません。そして、やくざたちに襲われるところを、主人公が助けるという設定です。
島津亜矢はもちろん、どの歌を歌う時もそうなんですが、これらの歌の時には特に、非情な世界で生きざるを得なかった青年のかなしさ、それでもなくさなかった純情を、凛とした立ち振る舞いと少し遠くを見つめる瞳にかくしてまっすぐに歌いきります。その時、長谷川伸の世界から生まれ、語り継がれてきたこの物語の名セリフは、この歌の中でもう一度、傷つきやすい少年時代の官能的とも言える心の叫びとなってよみがえるのでした。

小説・劇作家の長谷川伸は、1884(明治17)年に現在の日ノ出町駅の近くで産声をあげました。生まれも育ちも横浜でした。関八州の渡り職人衆から渡世の礼儀を学び、また神奈川県自由民権運動の魁、相州真土村騒動の指導者たちから、民衆の側に立って闘う男の姿を学んだようです。
彼は父の破産によって小学校低学生で学業をあきらめ、三菱ドック(現みなとみらい21)に波止場小僧として働きに出ました。外国人相手の土産物屋に飾られた浮世絵と、芝居小屋の看板を美術館とし、新聞の振り仮名で漢字の勉強をしました。幼くして舐めた辛酸と、海に面して国際性と、川に沿って民族性と、浜風が丘にあたって人情の露にかわる港町が人間性を磨き、長じてしがない男女の情愛をいつくしむ真の大衆作家にしました。長谷川伸の義理人情世界は西部劇『シェーン』にも、日活渡り鳥シリーズにも、近くはニューヨーク・インディ派作家にも影響し続ける国際艶歌だと平岡正明は評しています。(参考・「長谷川伸の碑 一九九七年四月六日 平岡正明 寄贈 日ノ出町活性化委員会」

「瞼の母」もそうですが、「一本刀土俵入り」における駒形茂兵衛と酌婦お蔦の出会いの名場面にも、少年時代の体験が織り込まれています。
長谷川は少年時代、品川遊廓の中の台屋(注文に応じて遊廓に料理を届ける仕出し屋)で出前持ちをしていました。そんなある日、「おたか」という遊女から「いつまでもそんなことをしていちゃあいけないよ」と意見をされ、銭と菓子をもらったそうです。
後年世に出てから、長谷川はあの日の礼を言おうと「おたか」を探しましたが、ついに見つからなかったといいます。
長谷川伸の人となりを表すエピソードを「鬼平犯科帳」の作家・池波正太郎が書いています。1950年代半ばの頃だと思います。

「不忍池畔にあった文化会館で鶴蔵一座が興行していた[一本刀土俵入り]を、故・井原敏さんと池波さんを伴って観に出かけた。3枚の切符は、長谷川伸師が買った。ご自分の芝居を見るためのキップを買われたのだ。
300本近くある長谷川伸師の脚本のうち、『瞼の母」『関の弥太っぺ』『沓掛時次郎』や『一本刀土俵入り』 は、地方の劇場や旅回りの劇団で、とりわけ多く上演されているが、それらの一座や芝居小屋は、長谷川伸さんに脚本使用料をほとんどはらわないらしい。
それを、長谷川伸師は、「彼らの生活の糧となっているのなら、いいじゃないか」と黙許なのだと。だから、この不忍池での鶴蔵一座へも、来意を告げれば、座長自身がすっ飛んできて案内したはず。それを、仰々しいし、かえって演じるたちを緊張させてしまうとおもんぱかり、客席のすみに席を求めたのだという。」

平岡正明の碑文といい、このエピソードといい、とても魅力的な作家だったのがよくわかりました。子どもの頃にふつうになじんでいた長谷川伸の描く義理人情の世界は、高度成長をへていつのまにかあまり表だったものではなくなりましたが、いまだに歌や大衆演劇などで語り継がれているのもまたたしかなことで、いま、もしかするとわたしたちの心の底で、もう一度長谷川伸を必要としているのかもしれません。
そして、島津亜矢の「一本刀土俵入り」がわたしたちの心の奥深くに届くのも、それと関係があるように思うのです。

島津亜矢「一本刀土俵入り」

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