島津亜矢「海で一生終わりたかった」
最近、2004年の島津亜矢のDVDを貸した人から絶賛してもらいました。島津亜矢のファンになって以来、いろいろなひとに彼女のことを話していて、「いいかげんかんにんして」と思われているのですが、それでもこれで4人の人に彼女の素晴らしさをわかっていただきました。その4人とも、島津亜矢という演歌歌手がいることを知らなかった人ばかりで、ジャズ、クラシック、ブルース、リズム&ブルース、ロックなどに親しんできたばかりです。
わたしは子どの頃には歌謡曲をよく聴いていたし、最近は妻のお母さんとつきあう形で演歌のテレビ番組を見ていて島津亜矢も知ってはいましたから、彼女のファンになってもおかしくはないのですが、4人のひとはわたしがロックやジャズなどを聴いたりする中で知り合ったひとたちで、実際のところかすかな期待を持ってはいたものの、彼女や彼らが島津亜矢を評価してくれて、ほんとうにうれしく思います。
このブログを読んでくれているかも知れないわたしの知り合いや友人の中にも、そしてこのブログをたまたまご覧になっている方の中にも、島津亜矢の歌を聴き、ファンになる人がいてくれたらと思います。
さて、DVDに収録された島津亜矢2006年リサイタル連理で、島津亜矢は「帰らんちゃよか」や「母への感謝状」で涙を流して歌っていますが、ほんとうに泣いているように思ったのは「海で一生終わりたかった」でした。正確に言えば彼女が泣いて歌っているというよりは、歌が泣いているように思ったのでした。
2003年に発表されたこの曲は、星野哲郎の作詞生活50周年記念曲として、星野哲郎最後の愛弟子である島津亜矢に提供した楽曲で、作曲は船村徹です。
数々の名曲を名立たる歌手につくってきた星野哲郎が、この特別な一曲を島津亜矢にプレゼントしたことには、やはり特別なことだったのではないかと思います。
甘い恋など まっぴらごめん
親のない子の 見る夢は
小さな貨物船(カーゴ)に 乗り組んで
港々で 恋をして
海で一生 終わりたかった
この歌はまさしく、星野哲郎の心情をそのまま綴った詩で、シンガーソングライターならまず自分自身が歌うはずです。その意味でこの歌は、星野哲郎が世に出した数々の名曲を北島三郎や美空ひばりなど日本の歌謡界にきらめく先輩の歌手たちが歌ったのとはまったくちがうところからつくられ、特別な思いを持って島津亜矢に託された歌なのではないでしょうか。島津亜矢もまた、そのことを深く理解しているのだと思います。
彼女はこの曲で、また一味違う声をわたしたちに聞かせてくれるのですが、それ以上にこの短い歌詞にギュッーとつまっている星野哲郎の人生を丁寧に、ドラマティックに歌ってくれるのです。
このリサイタルからすでに5年がすぎ、島津亜矢の歌の道はよりゆたかな光に包まれているように思う一方、星野哲郎というもっとも心強い応援者をなくしたことで、思い惑う夜もあるかも知れません。しかしながら、亡き恩師とのたくさんの思い出をたった3分ほどの時間でよみがえらせるこの歌は、島津亜矢にとってより星野哲郎との心の絆を深く留める歌になっているのではないでしょうか。
以前にも書きましたように、わたしに歌謡曲の素晴らしさを教えてくれたのは寺山修司でした。母一人で片手にあまる薬を飲み、一膳飯屋をしながら必死に育てられたわたしは、歌謡曲で歌われる裏町やガード下が身にしみていて、それを払いのけるように青春時代をもがいていました。自分もまわりの人間もだれも好きになれないわたしは、仕事が終わると公衆トイレで服を着替え、大阪の歓楽街のはずれの、若者ばかりが集まるすこしいかがわしいお店に入り浸っていました。そこでずっとかかっていた音楽はボブ・ディランやビートルズやローリングストーンでした。その頃のわたしは歌謡曲からもわたしの子ども時代からも母親の悲しすぎる愛情からも解放されたいと思っていました。
寺山修司はその頃、後に島津亜矢をほめたたえたという、あの歌謡曲嫌いの高木東六といっしょにNHKの「あなたのメロディー」の審査員をしていました。この番組は視聴者がつくった歌をプロの歌手が歌うコンクール番組で、この頃、「家出のすすめ」が論議を呼んでいた寺山修司はいつも挑戦的な独特の語り口で、歌の良しあしを評価することよりその歌をつくった若者と、この番組を見ているわたしたちを挑発していました。自分を変え、時代を変えるにはまず親を捨てろ、そして自由と不安に身をさらせと言い放つ寺山修司は、当然世のおとなたちからは危険な人物と思われていましたが、そのメッセージはダイレクトに当時の若者だったわたしの心に突き刺さったのでした。
寺山修司はロックやブルースやジャズもわたしに教えてくれましたが、それ以上に歌謡曲がより広く時代を映し、時には海を渡ってきた歌以上に時代を変える力を持っていることも教えてくれました。そして、彼が時代を論じる時に決まって取り上げるのが星野哲郎でした。
「私は詩の底辺ということばを使うなら星野哲郎こそ最も重要な戦後詩人のひとりだと考えるのである。しかも、彼は活字を捨てて他人の肉体をメデアに選んだのだ」(紀伊国屋新書「戦後詩」)。
そして、1968年に寺山修司が羽仁進とつくった映画「初恋地獄篇」で、主人公だったと思うのですが警官に追われて逃げ回るシーンで、北島三郎の「函館の女」が大音響で流れたことを思い出します。
鬼才といわれ、アカデミックな詩壇を批判していた寺山修司は、歌手の肉声によって伝えられ、街を縦横無尽に流れる星野哲郎の歌にコンプレックスを持っていたにちがいないと思います。
1974年、寺山修司が五木ひろしのために作詞した「浜昼顔」の歌詞は、どこか星野哲郎に似ているのではないでしょうか。
家のない子のする恋は
たとえばせとの赤とんぼ
ねぐらさがせば陽がくれる
泣きたくないか日ぐれ径(みち)
日ぐれ径(みち)
寺山修司は1983年に亡くなりましたが、この二人がもう少し同じ時代を生きて交流し、島津亜矢との出会いがあったとすればと、よく想像してしまうのです。
寺山修司は1973年、日吉ミミのリサイタルを構成演出して、涙また涙で観客を圧倒し、話題になったそうです。星野哲郎がこのリサイタルをみていたかどうかはわかりませんが、島津亜矢というめったに出ない逸材と出会い、このふたりが歌謡曲の復権を試みようとしたかも知れません。