2008年島津亜矢リサイタル 戦友

ここはお国を何百里 はなれて遠き満州の
赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
作詞・真下飛泉 作曲・三善和氣「戦友」

2008年リサイタルの中で、島津亜矢は「戦友」を歌いました。わたしはDVDでしか聴けないのですが、歌いおわると、「亜矢ちゃん、ありがとう」という掛け声が聴こえました。
わたしは軍歌が好きではありません。というより、軍歌に限らず国家、学校、会社など、組織がある意図をもってつくったり、そうでなくてもその集団を歌によってひとつにまとまろうとすることになじめないのです。ですから、わたしは「インターナショナル」も好きにはなれませんでした。
わたしにとって歌とは、ひとりのひとの肉体を通った魂のメッセージのようなものが、もうひとりのひとの肉体が受けとめ、心が揺さぶられる時に生まれるものだと思っています。それは聴覚障害のひとであっても、一般の歌とはちがう形で、やはり肉体を通した共鳴、共振がありうると信じています。また、それでは合唱はだめかといえばそうではありません。合唱もまたひとりひとりが自分の声を多くの人の声と共振させながら、歌をつくりだしているのだと思います。
島津亜矢が歌う「戦友」は、リサイタル会場にいた人はもちろんのこと、この歌にとくべつな思いを持つひとだけでなく、それほど好きでもない人もはじめて聴いた若いひとも心をゆさぶられ、感動するにちがいありません。何度か書いてきましたが、その歌唱力もさることながら、彼女のもって生まれた「神の声」がこの歌にかくれたいくつものかなしい物語をせつなく、いとおしく、そしてやさしく受けとめるように語りだすと、聴く者の無垢な魂が幾重にも重なって交感するのです。
ですからお客さんも、おそらく息をとめるように聴き入り、彼女が歌うことで舞台に現れたように思えた戦場の若者と心を通わせ、ともに友の死を悼んだにちがいありません。ですから、歌が終わったとたん、「ウォーッ」という歓声が上がり、思わず「ありがとう」と声をかけたのでしょう。このありがとうには、とても深い意味があると思いました。それはおそらく、むくわれることなく命を散らさざるを得なかった市井の若者のことを、ここまで全身全霊で受けとめ、歌ってくれたことへの感謝だったにちがいありません。
「戦友」は、1905年(明治38年)、日露戦争のさ中に作られた軍歌です。全14番の詞から成り立っており、舞台は日露戦争時の戦場です。関西の児童たちの家庭から女学生の間で流行し、やがて演歌師によって全国に普及したそうです。歌詞中の「軍律厳しき中なれど」が実際に軍法違反で、「硝煙渦巻く中なれど」と改められたことがあるそうですが、結局この歌そのものが厭戦歌ともとれる哀愁に満ちた歌詞、郷愁をさそうメロディーなどもあり、陸軍は最終的にこの歌を歌う事を禁止しました。
太平洋戦争中も「戦友」は禁歌でしたがたびたび歌われたそうです。そして戦後、連合国軍最高司令官総司令部は一切の軍歌を禁止しましたが、一兵卒の悲劇を歌うこの歌はひとびとに愛され、歌い継がれたのでした。

日本国憲法が施工された1947年、わたしは生まれました。
子供のころ、母は女手ひとつで兄とわたしを育てるために、大衆食堂を切り盛りしていました。夏の夜、バラックのお店で近所のおじさんたちはちりめんシャツとステテコ姿で縁台にすわり、うちわを仰ぎながら将棋をさしていました。するとシミーズ姿のおばさんが「もうそろそろ帰ってきて」と呼びに来るのでした。
黒い土と牛フンと鉄条網と280円のラジオと添加物いっぱいのみかん水。進駐軍のジープとアメリカ兵とキャデラックとドッジボールとチューインガム…。
わたしが物心ついたころは貧乏ながらも明日へのおぼろげな希望と夢をふりかけた戦後民主主義の幻想と、まだ戦争の傷跡が残る風景とが入り混じっていました。わたしは大阪環状線で高校に通っていたのですが、大阪城の近くにあった大阪砲兵工廠跡の廃墟を毎日みていました。
学校帰りの電車の中で、白装束と義足、義手で松葉づえをつき、首から募金箱をぶらさげた男たち数人が突如現れました。ハーモニカやアコーディオンで「戦友」を演奏し、先の戦争での悲惨な体験を演説し、生活の困窮を訴えるのでした。彼らが現れ、演奏と演説がはじまったとたん、電車の中はとつぜん芝居の空間になり、怖さ半分がまじったわくわくした高揚感につつまれたものでした。
戦争で障害を持った彼らは傷痍軍人とよばれましたが、戦後の街のいたるところで募金活動をしていました。彼らの訴えは、「戦争で障害者になり、働くこともできないこんな体にしたのは誰だ。国ではないか」という怒りと、「あんたらがいま平和に暮らせるのはだれのおかげだ、お国のために戦って腕を無くし、足をなくしたわれらのおかげではないのか」という心情的脅迫とが共存していました。
わたしが高校生の頃まで、とくに大阪環状線沿線の大阪城付近では彼らの存在はあたりまえの日常でした。にせものがいたというのも本当なのでしょうが、軍人や兵隊でなくても戦争のために障害を持ってしまったひともいたでしょうし、そうでないひともいたとしても、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めているはずの日本国憲法をもってしても「障害者」としての彼らの生存権を保障できなかった以上、彼らの行動がまちがっていたとだれが言えるでしょうか。
彼らは彼らなりの障害者運動をしていたのだとわたしは思います。
わたしは傷痍軍人の存在によって明治以来、お国のために死んでいったひとたちや傷ついた人たちのことを学びました。しかしながら、それと同時に明治以来の国家の戦争でアジアの各地で死んでいったひとたちや傷ついたひとたちが無数にいたことも、終戦間近の空襲と原爆投下によって死んでいったひとたちや傷ついたひとたちのことも知りました。

そして時が過ぎ、傷痍軍人たちはいつのまにかいなくなりました。わたしたちの前から姿を消した彼らはその後どんな人生をおくったのでしょうか。そして大阪砲兵工廠跡もすっかりなくなり、今はオフィスビル、ショッピングビル、大阪城ホールが立ち並び、おしゃれなスポットになってしまいました。
傷痍軍人が闊歩?していた街の景色は、今はたとえば唐十郎の芝居の中にしかないのでしょう。そういえば唐十郎はよく傷痍軍人を登場させていたように思います。
彼らがいなくなることで街はこぎれいにおしゃれになりましたが、わたしは障害者の問題としても戦争と平和を考える上でも、彼らが訴えたことは今でも大切なことだと思っています。むしろ、わたしたちの社会はそれらのことを避けることで多くのものを得たかもしれないのですが、とても大切なものをなくしてしまったのかもしれません。
「戦友」という歌にしてもわたし自身軍歌ということで避けてきましたが、この歌が実は国家から禁止されながら歌い継がれたわけを思えば、「お国のために」戦場に行かざるを得なかった方々の心情に思いをはせ、国家は国民を幸せにするためにあるはずではなかったのかと、あらためて考えさせられました。
「戦友」を歌うまえに島津亜矢が言ったように、戦争は決して昔話ではないと思います。
そして「戦友」という歌と真正面から向き合い、歌いきった島津亜矢はやはり稀有の歌手だと思いました。

2008年リサイタルのステージについては、まだいくつか思うことを書きたいと思うのですが、その前にもう一度、戦争と歌について思うことを次回に書きたいと思います。
島津亜矢「戦友」

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