島津亜矢と神戸の海と「メルヘン」のマスターMさん

神戸のコンサートの後、近くのお店でご飯を食べました。土曜日の夜の三宮ですからさすがにどこのお店もお客さんがいっぱいで、ずいぶん待たされてやっと席に案内されました。
KさんがIさんに「今日はどうやった」と聴くと、Iさんは「やっぱり『帰らんちゃよか』は嫌いやけど『感謝状』では涙が出そうになった」と言いました。彼は特有の感受性を持っていて、以前にも書きましたがわたしにブルースを教えてくれた先生のひとりなんですが、それなりには島津亜矢をいいと思ってくれているみたいなんです。
けれどもやや斜めに構えて話したり文章を書いたりして、それがけっこう人気で注目されたりするのですが、「帰らんちゃよか」はきっと生理的に受け付けないのでしょう。わたしはこの歌が大好きですが、バッテン荒川の「帰らんちゃよか」を聴くと、この歌ばかりは島津亜矢が負けちゃうと思うところもたしかにあります。それでもわたしは島津亜矢が「今度みかんいっぱい送るけん」と歌う時に、会場のすべての人の人生を愛おしく右手ですくい上げるような姿を見ると、いつも涙が出てしまうのです。
「感謝状」の方こそ彼の苦手な歌だと思いきや、こちらでは涙が出るというIさんはほんとうにわからんなと思いつつ、実はわたしもこの歌にもほろっと来てしまいます。星野哲郎の作詞の押さえどころをはずさない歌の職人・弦哲也が作曲したこの歌は、まさに島津亜矢のテーマソングとして歌いつづけられることでしょう。
「帰らんちゃよか」も「感謝状」もどちらも親子の愛情を歌った歌で、定番のテーマですが、不思議に島津亜矢が歌うと歌の良さより先に彼女の迫真の表現に圧倒されてしまい、まるで彼女の身の上話をきいているような気持になり、ますます彼女を好きになってしまうのです。
それから島津亜矢が会場周りをしている時、ベースの音が大きくなったとIさんと加納ひろみさんが言っていて、耳がいいなと思いました。加納さんはもとよりIさんもバンドをしていたこともあるので、そのあたりがわたしより深く音楽を聴くことができるのだなと感心しました。
Kさんは長渕剛の大ファンで、6月の大阪ツアーのチケットの抽選申し込みをしていて(わたしも一緒に行くのですが)、そういえば椎名林檎のファンでもあり、そのあたりで島津亜矢にもピンとくるものがあるのかもしれません。ちなみに長渕剛の「人間」を島津亜矢が見事にカバーしていました。
楽しいひとときを過ごした後、わたしは能勢の家には帰れないので三宮のビジネスホテルに泊りました。思えば大阪に近い神戸に泊ったことはなく、ホテルも意外といい感じでゆっくりやすむことができました。

翌日、昼に箕面に行く事情ができたため、最初の予定を大幅に縮め、ほんの1時間でしたがメリケンパークの方向に歩きました。前日の島津亜矢の「海ぶし」や「海鳴りの歌」を聴き、コンサートの余韻をかみしめるために神戸の海を見たいと思ったからでした。
三宮から歩くとメリケンパークまでちょうど30分で、すぐに引き返さないと約束の時間に箕面にたどりつかないので、ほんとうに早足の散策でしたが、それでも久しぶりに神戸の海を見ることができました。
メリケンパークの東側の一画には阪神・淡路大震災で崩壊したメリケン波止場をそのまま残して整備された神戸港震災メモリアルパークがあり、震災の貴重な記録が保存されています。ここを訪れるとおそらくだれもが17年前の記憶をとりもどすにちがいありませんが、わたしもまた豊能障害者労働センターの在籍時で障害者救援活動のひとつをになった激動の季節を思い出していました。
そして、この日の朝の神戸の海はとても静かで、沖から寄せる波には曇り空から届けられた光の破片が無数に散りばめられていました。日曜日の朝、もう少しすると多くのひとたちがやってくるこの海にさそわれるようにやって来ることでしょう。時として白い牙を光らせてわたしたちに襲いかかる理不尽な力を秘めながら、それでもわたしたちを海に急がせる切ない夢もまた、この海のどこかに隠れているのだと思います。
ICレコーダーで毎日聴いている島津亜矢の歌を聴きながら、急いで三宮へと戻りました。
三宮のフラワーロードの一つ西側のトアロードの片隅にあった「メルヘン」というバーのマスターだったMさん。豊能障害者労働センターが阪急箕面線桜井駅の近くのガレージを借りてはじめてのお店「れんげや・ふだんぎや」をやっていた時、お店の準備をする前に神戸から訪ねてきてくれた彼のことを、そんなに知っていたわけではないのですが、1992年の豊能障害者労働センターの10周年パーティーに来てくれた直後、突然謎の死をとげた彼のことを神戸に来るたびに思い出してしまいます。
1982年頃、豊能障害者労働センターと知り合った頃にMさんや加納ひろみさんや、神戸の友人たちと出会いました。この頃のわたしは決して明るいとは言えないがそれでも振り返れば、切なさや悲しさや嬉しさや寂しさにあふれた青い時から遠くはなれ、歩く道が見つからず悪戦苦闘していた頃でした。
そんな時に豊能障害者労働センターと出会い、障害のある友人と出会いました。そしてまた、音楽を通じて神戸の友人たちとも出会いました。それからのわたしの人生を決定づけた出会いがこの時に一度に押し寄せたのでした。みんなが「メルマス」と読んだMさんとの出会いもその中でのことでした。彼が死んだ1992年はハーバーランドができた年で、5月だったか「メルヘン」に行った時、「神戸の人の流れも変わってしまう」と少し悲しそうに言った彼の声が今でも聴こえてきます。
ちょっぴり感傷的になりながら三宮駅から阪急の特急電車に乗り込んだわたしは、島津亜矢の「想い出よありがとう」を何度も何度も聴いていました。

逢って別れ 別れて出逢い
愛に泣き 夢に迷い
歌よりも 歌らしく
心を揺さぶる
想い出よ ありがとう

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