島津亜矢30周年記念リサイタル2 「津軽海峡・冬景色」

島津亜矢30周年記念リサイタルの第二部は「演歌桜」ではじまりました。1999年に発表されたこの歌は島津亜矢の歌手人生を物語るテーマソングとして、当時のコンサートでよく歌われた一曲でした。
最近ではあまり歌われなくなっていましたが、やはり30周年記念リサイタルでは外せない歌でした。たかだか2009年の秋に彼女の存在を知り、コンサートに行き出したのが2011年からというファン歴の短いわたしは、この歌をステージで聴く機会はあまりありませんでしたが、それ以前のリサイタルのDVDを観て、演歌歌手・島津亜矢の真骨頂を垣間見た気がしました。この歌はイントロと終わりにどちらもジャジャジャーン…と、大時代的というか、芝居がかった演奏の編曲がすばらしく、そこを聴くだけで日常の世界から非日常へと一気に引き込まれ、長谷川伸の人情芝居の一幕を観ているような気持ちになるのです。
その後、「りんごの歌」、「ああ上野駅」、「なみだの操」、「津軽海峡・冬景色」、「酒よ」と、戦後から昭和の終わりまでの歌謡曲を歌いました。昭和の歌謡曲、とくに1950年代から60年代前半までの歌謡曲を歌わせると、歌の女神が舞い降りたような、憑き物に憑りつかれたような熱唱で聴く者の心を共振させる島津亜矢ですが、今回も5曲ともしっとりと聴かせてくれました。その中で異色だったのが「なみだの操」でした。わたしはこの歌に登場するような女性像が嫌いで、この歌に限らず耐え忍ぶ女性や捨てられる女性を性懲りもなく演歌が歌っている間に時代は変わり、日本社会の音楽事情は大きく変わってしまったことを実はいいことだったと思っています。「星影のワルツ」や「みちのくひとり旅」に出てくる男たちはいまだに「男のロマン」の中の女性(おんな)を信じているところがほほえましく感じます。
わたしが島津亜矢を好きなのは、不思議にそんな女性像をほとんど歌っていないところです。それはなにも女歌が苦手で男歌が得意ということではなく、たとえば浄瑠璃や歌舞伎で庶民に圧倒的に支持された「心中もの」など、時代の権力に翻弄され、理不尽な仕打ちにあう悲惨な女性の運命と、その裏に隠し持つ権力へのひそやかな抵抗を物語る名作歌謡劇場では、繊細で悲劇的で、ときには恨みと後悔につつまれながらも健気で純情な女性像を歌と芝居で見事に演じています。
「なみだの操」の場合、この歌のオリジナルを歌った宮路オサムと殿様キングスは半分本気で半分冗談で「期待される女性像」を歌っていて、それはそれで超越した諧謔性が感じられ、けっして嫌いではありませんでした。島津亜矢がこの歌を歌うのはとても意外な感じですが、「この歌で演歌のコブシの練習をしました」という彼女の歌を聴くと、不思議にわたしの理屈を吹き飛ばしてくれるのでした。そういえば「みちのくひとり旅」を聴いても同じような感想を持ったことを思い出します。

「津軽海峡・冬景色」も印象に残った一曲でした。この歌はご存知の通り阿久悠作詞、三木たかし作曲、石川さゆりの1977年のヒット曲です。失恋の傷みをかかえ、上野駅から青森、そして北海道へ帰郷するため、真冬の津軽海峡を連絡船で渡って行く女の心情を歌ったこの歌は青函トンネル開通により1988年に青函連絡船が廃止された後も今日にいたるまでずっと歌い継がれています。
「上野発の夜行列車降りた時から 青森駅は雪の中」と歌い始めるこの歌をはじめて聴いた時、失恋した女性はなぜみんな北へと帰るのだろう、いや女性だけでなく東京での生活に疲れ、絶望し、見切りをつけたひとたちはなぜみんな北へと帰るのだろうと思ったものでした。そのわけをなんとなく教えてくれたのは2011年の東日本大震災でした。東北をはじめとする北日本に住む人々と東京との政治的経済的な関係や原発問題など、「ああ上野駅」から始まった一方通行のひとの流れが「津軽海峡・冬景色」によって逆流する時、かつて三橋美智也の「さらば東京」が暗示していた高度経済成長の破たんを阿久悠が現実の物語として語って見せたのだと思いました。
わたしはこの歌の「さよならあなた 私は帰ります 風の音が胸をゆする 泣けとばかりに」というくだりが大好きですが、この女性は恋人にさよならを言っただけではなく、高度経済成長が生み出す幸福幻想とそれを牽引する東京にさよならをしたのだと思ったものでした。
青函連絡船が廃止されたずっと後だったと思うのですが、阿久悠が「今ならこの歌の世界はまったくちがった風景をしているはずです。いまなら飛行機から津軽海峡を見おろしたり、青函トンネルの中でこの上あたりが津軽海峡ということになり、すでにこの演歌の物語とは無縁になってしまう」というようなことをどこかで話していた記憶があります。
時代の中で生まれ、時代とともに生き、時代と共に忘れ去られる歌もあっていいと阿久悠は考えていたと思うのですが、実際には歌もまた現実の世界から生まれたストーリーである以上、まだ歴史になっていないできたての時代の思い出を背景に、この名曲は歌い継がれていくことでしょう。
ちなみに彼が亡くなった2007年の夏はアメリカの住宅の下落からアメリカの住宅ローン崩壊を背景とした金融危機・サブプライムローン破綻が表面化し、その翌年のリーマンショックによって長い間世界経済を席巻していた新自由主義の見直しから経済成長や資本主義そのものへの疑問がわき上がり、世界経済の混迷の途上にある現在へと至る発端の夏でした。
わたしにとって阿久悠の死はそのことと切り離せないものになっていて、現代演歌が高度経済成長の終焉とその後のバブルの崩壊とともに時代の鏡の役割を終えることを阿久悠はこの歌で暗示していて、彼自身80年代にも数々の名曲を作詞するものの松本隆や秋元康の台頭によってメインプレーヤーの役割を終え、小説などの執筆へと活動を移していくことなります。2007年の彼の死は20世紀から21世紀へと世界も日本も持続可能な社会への移行と、それに呼応する新しい歌謡曲の誕生を必要としていることを象徴する出来事だったのではないでしょうか。
そんなことに思いを巡らしながら島津亜矢の「津軽海峡・冬景色」を聴いていると、つくづくもう少し早くに島津亜矢が阿久悠と出会っていたら、歌謡曲やJポップの世界が変わっていたかも知れないと思います。島津亜矢には阿久悠が残した未発表の詩10曲を当代の作曲家が競作するようにできあがったアルバム「悠悠~阿久 悠さんに褒められたくて~」という宝物がありますが、せめてこの10曲でもありがたいとは思いながらも、もし阿久悠が生きていて島津亜矢をプロデュースし、作詞を提供していたら、「津軽 海峡・冬景色」以後の時代の「大きな物語」を島津亜矢とわたしたちに語ってくれたことでしょう。

「ああ上野駅」については以前に長い記事を書きましたが、ここで歌われたどの歌も島津亜矢が歌うと特徴がないと勘違いされるぐらい、「個性」とごまかす「くせ」をそぎ落とし、透明な声と奥深い歌唱力で歌が誕生した時代の荒野にいざなってくれるのでした。
ここまでで長くなってしまいました。あと一回、次は美空ひばりの「悲しい酒」を中心に書こうと思います。

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