島津亜矢30周年リサイタル・大阪フェスティバルホール

11月4日、島津亜矢30周年記念リサイタルに行きました。会場は大阪フェスティバルホールで、2012年の暮れに建て替えが完了し、世界的にも評価の高かった初代に劣らないすばらしい音響効果を実現したホールです。
わたしはすでに小椋佳、井上陽水のコンサートで訪れましたが、このホールで島津亜矢のコンサートを聴けることを楽しみにしていました。
30周年記念として、10月22日の5000人規模の東京国際フォーラム、11月3日の3000人規模の名古屋センチュリーホールにつづき、2700人規模のフェスティバルホールと大きなステージがつづき、気の抜けない日々だったと思います。

幕が上がると浪曲の演台のセットに島津亜矢が立ち、口上を述べました。その後、師匠でもある二葉百合子の「一本刀土俵入り」をオープニングとしてリサイタルが始まりました。島津亜矢のいつもの「一本刀土俵入り」は初代京山幸枝若がオリジナルですが、今回はおそらく口上との関係もあり、二葉百合子版になったのだろうと思います。
やはり特別のステージだったからでしょうか、やや緊張した口上に聴こえました。デビュー以来、数えきれないステージでお客さんを前にしてコンサートを開いてきた島津亜矢ですから、どんな大きなステージであっても揺るがない潔さでその時その時に最高のパフォーマンスを届けてきた島津亜矢ですが、さすがに30周年という時の重さに心が震えているようにわたしは思いました。
16才の少女が演歌歌手として大衆芸能の扉を開いた時、どんな風景が広がっていたことでしょう。幼いころから人前で歌うことに緊張するどころか、自分の歌が多くの人々の心に届くためにどうすればいいかと、そのことだけを考えていたであろうその少女には、輝く未来につつまれた幸せな世界が広がっていたはずです。
しかしながら、時代はすでに演歌全盛期から遠く、数多くの玄人筋からその歌唱力が高く評価されても、彼女がほんとうに自分の歌を届けたいと願うひとびとの心の回路に届くには自分の実力だけではいかんともしがたい現実もまたあったことでしょう。
いい歌と実力さえあれば聴いてくれるひとびとが必ずいるというわけではなくなり、ある意味過酷だった「高度経済成長」という日本社会全体の絶対的な飢えと欠乏感に支えられ、人生の応援歌としてひとびとの心のささえとなってきた演歌や歌謡曲よりは、もっと個人的な若者の恋愛や、豊かな社会を生きる漠然とした孤独感など、感情を直接的に表現するJポップが若者に支持されるようになりました。それは総体として敗戦直後から人々をはげまし、切実に歌を必要とするひとびとの心のよりどころとされてきた「歌」そのものがその役割を終えたということなのかも知れません。もしそうだとすれば、島津亜矢のようにまっすぐな直球で人生の歌を歌いつづける歌手にとって、とても長すぎる受難の30年だったのかもしれません。
そんな事情を知ってか知らずか、島津亜矢はただひたすら自分の信じる歌の道をまっすぐ歩いてきたのでしょう。その道はどんなに豊かに見え、絶対的な貧困が遠い昔になったとしても、豊かな社会であるがゆえに誰にも助けを求められず自分の部屋に閉じこもるしかないひと、子どもの貧困率が全体で16パーセント、シングルの親の家庭では60%にもおよび、非正規職員が4割に達してしまった時代に、硬く閉ざした心をだきしめ、不安定な生活を強いられているひとびとにこそ届く歌の道であったことを確信してやみません。

第一部はその後、オリジナル30曲メロディーという大胆なステージで、東京のリサイタルの報告であらかじめ知っていたものの、現実のステージは過酷なものでした。たしかにそれぞれの好みの歌をもっとじっくりと聴きたかったという感想もありましたが、わたしはそれよりも島津亜矢がその30年、ライブにして3000回以上と膨大なCD、DVD、そして数多く出演してきた音楽番組を通じて少女から大人の成熟した女性へと変身したそのプロセスを一瞬の時の踊り場で舞って見せたことに涙がでました。
その長い階段を駆け抜けながら、恩師・星野哲郎をはじめとする時々の島津亜矢チームとの共同作業や、デビューして5年ぐらいだったでしょうか、自分とそのチームですべての活動をプロデュースするようになったことなど当時の悪戦苦闘を思い返しながら、よくぞここまでたどり着いたという万感の思いに溢れた怒涛の30曲メロディーでした。2階の一番前の席とはいえ彼女の細かい表情は読み取れなかったのですが、最後の「独楽」の時に珍しく音をはずしたわけは感極まって泣いていたのでしょう。
この企画は30年の歌の軌跡をたどるもので、30年来のファンからわたしのように最近のファンまで、彼女の歌に合わせて歩んできたファンをはじめとする観客それぞれの人生を思い返す面白い企画ではありましたが、実際のところはいつものコンサートのメロデイーの歌唱とはまったくちがう緊張感と力の入りようでしたので、さすがの島津亜矢も疲れたのではないでしょうか。
それでもこんな時は細かいことは抜きにして、彼女の歌への情熱と彼女を見守りながら逝ってしまった星野哲郎をはじめ何人かの音楽と人生もろもろの先輩やチームスタッフや、何よりも30年間彼女を支え続けたファンの方々への感謝の気持ち、そしてこれからの10年に歌手人生のすべてをかけようとする意気込みなど、からだも心も前のめりになりながらも自分の心情を惜しげもなく吐露する彼女のすがたに涙が出たのは、わたしだけではなかったはずです。

その後ドレスに着替え、もうひとりの島津亜矢が長年つちかい、育ててきたポップス歌手・島津亜矢か登場しました。
今回は彼女のポップスのアルバム「SINGER2」から「HERO」、発売されたばかりの「SINGER3」から「THE ROSE」の他、「青い珊瑚礁」、「どうにもとまらない」、「ロマンス」を歌いました。
松田聖子の歌のカバーは何曲かあり、島津亜矢のベースにあるもっともナチュラルな声質が活かされた歌唱はすでに数多くの人々に認知されていますが、個人的には「どうにもとまらない」が心にぐっときました。作詞した阿久悠はグループサウンズからアイドル、そして演歌歌手とジャンルを越えた名作をいくつも残しましたが、その中で山本リンダに提供した歌には彼の時代に対する挑戦が込められていたように思います。岩谷時子の「いいじゃないの幸せならば」と双璧をなすように70年代の新しい女性像を描いたこの歌は世間の風当たりなどもろともせず毅然と時代に立ち向かった山本リンダでなくてはならなかったのでしょう。
その歌をいま島津亜矢が歌う時、女性運動のたたかいの先に時代は変わり、50年前よりは日本の女性の自立像を確立されたところもあるものの、今度は長い間彼女たちを縛り付けてきた社会のシステムそのものが「介護力」として新たな縛りを課している時代の悲鳴のようにも聴こえました。
ともあれ、今回のリサイタルでは30曲メロディーの後ということからややお疲れ気味で、ひとつひとつの曲の独立性にやや乏しかったような感じもありましたが、最後の「THE ROSE」は第一部の締めくくりにふさわしいものでした。
その後、20分の休憩後第二部がはじまりましたが、その様子は次回に報告させていただきます。

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