美空ひばりから受け取るバトンはたましいのリレーそのもの

2006年に亡くなった久世光彦が演出・プロデュースした1976年のドラマで、「さくらの唄」があります。
「時間ですよ」、「寺内貫太郎一家」などの時間帯に放送されたドラマで、彼のドラマでは珍しく山田太一の脚本でした。
舞台となるのは、東京の下町・蔵前の小さな整骨医院。男気があり、すぐに怒鳴る主人の伝六(若山富三郎)。心臓を患い、平穏な毎日を送りたいと願う妻の泉(加藤治子)。この夫婦をいつも悩ませているのは、2人の娘の行く末のことでした。長女(悠木千帆・樹木希林)は会社員の中西(美輪明宏)の子供を身ごもるが籍を入れる気配がない。また次女(桃井かおり)は妻のある牧師の朝倉(田村正和)を密かに愛し、実らぬ恋に身を焦がしていました。ほかに篠ひろ子や岸辺修、由利徹など異色のキャストが評判を呼びました。
山田太一のドラマは「岸辺のアルバム」に代表されるように、30年の住宅ローンでマイホームを手に入れたものの高度経済成長のスピードについていけない家族の孤独と不安のありようを鋭く描いたドラマが多く、「さくらの唄」のような下町を舞台にしたドラマはめずらしかったと記憶しています。
昭和の時代、頑固親父がいて優しい母がいて、あけすけに物を言い合う家族と、家族同然に言いたいことを言うご近所と励まし合うという下町人情を描くホームドラマが盛んでした。その意味ではテレビドラマの創成期を山田太一と二分した倉本聰の方がぴったりするドラマではありました。事実、山田太一は下町生まれにも関わらず、べっとりした下町人情が好きではなく、このドラマにおいても下町の予定調和的な人情でめでたしめでたしとはならない山田太一らしいやさしい毒が仕組まれていた記憶があります。
それはともかく、わたしにとって衝撃的だったのはこのドラマで流れた美空ひばりの「さくらの唄」でした。以前にも書きましたように、わたしは長い間美空ひばりが苦手でした。
というより、「演歌・歌謡曲」が嫌いだったのです。そんなわたしに、競馬も歌謡曲も3分間の死への疾走だと教えてくれたのは寺山修司でした。70年安保にも積極的にかかわれず、といってどもりの対人恐怖症で、今でいう引きこもりだったわたしは一般の会社勤めができるはずもなく、実務能力も才能もなくてもよく、しゃべらなくてもいいビルの清掃員をしながら、「老後の資金」をこつこつと貯めるという、若者にそぐわない暮らしをしていました。そんなわたしのバイブルが、なぜかサルトルの「存在と無」と寺山修司の「家出のすすめ」だったのでした。
地方から出てきたどもりの青年が、畠山みどりの「出世街道」に自分を重ねて「口に出せない」から「口には出さず」と歌う時、どもりを逆手に取った変革へと自らを生きなおすのであり、それは革命への道の第一歩なのだ…。というようなことを言ってくれた寺山修司は、彼の虚言の常とう手段だったかもしれないけれど、その頃のわたしにとっては自殺を思いとどまらせたといっても過言ではない「神の声」だったのです。そこからわたしの歌謡曲人生が始まったのですが、森進一、青江三奈、都はるみなどは簡単に受け入れられたのですが、美空ひばりだけは長い間受け付けませんでした。
そのわけを考えてみると、粘着質で通俗的で、どこか暗い闇をかくしたカリスマ性、いま思うと美空ひばりの最大の魅力であり、かつ島津亜矢であってもまだ近づけないと思える魔性に憑りつかれてしまうような恐怖に近い感情が湧き上がるからでした。
そんな毛嫌いを一新させたのが「さくらの唄」でした。くしくも寺山修司によって歌謡曲開眼したわたしは、寺山の友人だった山田太一のドラマによって美空ひばりとはじめて向き合ったのでした。
わたしはこの歌のどうしようもない暗さと同時に、この短い歌が終わったところから立ち上がり、ふたたび生きていこうとする静かな意志を限りない細やかで繊細に丁寧に歌いあげる美空ひばりに感動し、彼女の数々のヒット曲を差し置きこの歌が大好きになりました。
この歌を作詞したなかにし礼は1970年代に入ってまもなく、実の兄の莫大な借金をまるごと抱え込んで、失意の底に沈んでいました。現実のあわれな自分の身代わりに、もう一人の自分をあの世に送り出すため、いわば遺言歌として書いたのが「さくらの唄」だといいます。作曲した三木たかしはこの歌に惚れこんで、自らが歌ってレコードにしましたが、まったく売れなかったようです。
最近になって久世光彦の著作「マイ・ラスト・ソング」を読み、この唄を美空ひばりが歌うことになったいきさつをはじめて知りました。

どんなきっかけでこの歌を知ったのかも、またこの歌が生まれたいきさつも知らないけれど、何度聞いても泣けてくる。こんないい歌が誰にも知られずに眠っている。どうにかしてこの歌をよみがえらせたい。ドラマで流してみよう。
どう考えてもこの歌を歌えるのは美空ひばりしかいない。芝居や歌がその人の人生経験だけとは言えないが、この歌だけは泥水を飲んだことのない人には歌えない。生きてきた日々の中で重ね重ねた恥の数がとっくに年齢の数を越え、それでも懲りないで厄介な奴が伏し目がちに歌ってくれて、はじめて「さくらの唄」はほんのりと匂うのだ。
この歌は地獄を覗いて、そこから命からがら、這うように逃げかえった卑怯未練の歌なのである。それなら、美空ひばりしかいない。

歌謡界の女王が他の歌手の曲なんか歌うわけがないとコロンビアレコードから断られてもあきらめない久世にコロンビアも根負けし、「では、ご自分でお嬢に交渉してみたら…」と譲歩、そこで大きなテープレコーダーを抱えてひばりが公演中だった名古屋の御園座まで出向き、楽屋で三木の「さくらの唄」を流したのでした。

「もう一度聴かせてください」。美空ひばりの声はすっかりつぶれていた。老婆のようにかすれた声だった。私はテープを頭に戻してボタンを押した。

何もかも僕はなくしたの
生きてることがつらくてならぬ

ひばりは目をつぶって歌っていた。ひばりはポロポロと涙をこぼして歌っていたのである。そしてテープが終わると、私に向かって座り直し、「歌わせていただきます」としゃがれた声で言って、それから天女のようにきれいに笑った。
「本当は、こういう歌を私の最後の歌にすればいいのでしょうが、まだ死ぬわけにはいかないので…」

今はドラマやCMや映画とタイアップする歌しか売れない時代ですが、「さくらの唄」がなかにし礼と三木たかしの青い蹉跌から生まれ、それを聴いた久世光彦がほれ込み、この歌を流すドラマをつくるために美空ひばりに歌ってもらったというエピソードはまるで逆の道筋です。この歌は結局ヒットしなかったものの、わたしは美空ひばりという昭和のスーパースターがとても繊細な感受性といじらしいほどの純情な心と、そしてなによりも心の奥深くこの歌を受け止め、歌うことに魂を使い果たしてもいいという矜持に圧倒されます。
わたしは島津亜矢が美空ひばりから受け取ったバトンは、大げさに言えば人間が歌うことを発明して以来、口から口へ、心から心へと伝えてきたたましいのリレーそのもののバトンであり、決して歌唱力とか天賦の才能とかで語られるようなものではないと思っています。島津亜矢の他に彼女よりはるかに才能に恵まれた歌い手さんはたくさんいるかも知れないし、これからも現れるかもしれません。
しかしながら、数々のエピソードで語られる美空ひばりの歌への情熱、歌うことへの執念、歌に呪われ、歌に囚われ、歌に翻弄され、そして歌に愛された彼女の人生は、わたしの個人的な主張であることを承知の上で、島津亜矢にこそ引き継がれるものであると信じているのです。
わたしはどこかに歌の墓場があり、わたしたちが歌ったり聴いたりする歌はそのごく一部で、その墓場ではそれぞれの歌が生まれ育った記憶を持ち、誰かがその歌をまた歌い継ぐ時を待っているのではないかと思うのです。そして、島津亜矢はその歌が自分のために作られた歌であろうとそうでなかろうと、わたしたちみんなの共有の歌として再びよみがえられることのできる数少ない歌い手さんなのです。
美空ひばりもまた、持ち歌はもちろんのことですが、たくさんのカバー曲を歌っています。あらためてそれらを聴くと、彼女を「演歌の女王」にしたてあげたことで、彼女の歌の世界をどれだけせばめてしまったことかと実感します。
それはちあきなおみにも藤圭子にも当てはまるものですが、それはまたの機会にして、島津亜矢がジャンルにとらわれず真摯に歌いつづける姿勢は美空ひばりとつながっています。美空ひばりに到達し乗り越えるのではなく、美空ひばりが夢見た歌の世界を広げ、志半ばでこの世を去った美空ひばりと共に歩き始めることが島津亜矢に求められているのです。

美空ひばり「さくらの唄」

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