安室奈美恵、小室哲哉の引退と島津亜矢・時代が変わる大きな潮目。

安室奈美恵の引退と小室哲哉の文春報道をきっかけにした引退。90年代を席巻したJポップをけん引した2人の引退は、時代の潮目が大きく変わろうとしていることを暗示していると思います。
1970年代の阿久悠から80年代の松本隆を経て90年代の小室哲哉と、この3人はくしくも10年ごとに日本の大衆音楽を大きく変革した人たちですが、その中で小室哲哉はダンス音楽を持ち込むことで、まだ歌謡曲の域を完全には抜けきれなかったポップスに、世界に通じるまったく新しい若者文化を誘発したプロデューサーとしての才能が抜きんでた人だと思います。
そして、小室哲哉の音楽が世間に躍り出ることになったのが安室奈美恵であったことを思うと、引退の理由はそれぞれ違い、特に小室哲哉の場合はすでにお腹いっぱいになっている「不倫騒動」が直接のきっかけになっているとしても、一つの時代がまた終わったという感があります。
というのも、90年代は小室哲哉一色のように見えましたが、松本隆や松任谷由美など80年代の詩的でメロディアスな名曲が時代に溶け込んでいった時期でもあります。
そこから一方ではシンガー・ソングライターの本格的な台頭とバンドブームがあり、さらにはヒップホップが定着し、戦前から戦後の長い間、欧米の音楽に対するコンプレクスをばねにつくられてきた日本の音楽シーンがいい意味で自立し、成功体験はないものの世界の音楽シーンにデビューしたり、反対に世界を気にしないで自分の音楽を発表する若者が台頭してきました。
90年代末に現れた宇多田ヒカルによって自分の音楽的冒険が終わったと証言している小室哲哉はその時点でいつ引退してもおかしくなかったのだと思います。
90年代の小室哲哉の音楽の巫女的存在だった安室奈美恵はリズム&ブルースやヒップホップなど、ブラックミュージックのにおいの強い音楽でトップスターになりました。実際は小室哲哉のプロデュースは1995年から2001年までで、それ以後は小室哲哉から離れてセルフプロデュースでヒット曲を連発するようになりました。
引退ということで、いろいろなマスメディアが取り上げるのはどうしても小室哲哉プロデュース時代で、ほとんど彼女の歌についていけなかったわたし自身もなんとなくその時代に目が向きますが、今回彼女の活躍の歴史を振り返ると、むしろ小室哲哉から離れてからの方がその人気の絶大さもさることながら、音楽のクオリティもライブのパフォーマンスもはるかに優れていることを知りました。
年代的にも15歳でデビューし、40歳までの25年間の中でも2001年からのセルフプロデュースの期間の方が長く、彼女の評価はすでに小室哲哉時代では測れないことを知りました。
とくに、テレビへの出演をなくし、ライブ一本で活動を続けてきたことや、そのライブでもMCがなく、初めから終わりまで歌とダンスのパフォーマンスだけで桁違いの観客動員と、彼女の音楽に対するシンパシーを高め続けてきたことに、まさしく平成の歌姫と呼ぶにふさわしい存在であったことをあらためて知りました。
引退表明後のベストアルバムもダブルミリオンとなり、史上初となる10代・20代・30代・40代の4つの世代でのミリオンを達成しました。
わたしは島津亜矢のファンとして、どちらのファンの方々にもひんしゅくを買うかもしれませんが、ジャンルもファン層もセールスの規模もまるで違いますが、音楽に対する真摯な姿勢やライブを一番とする活動など、安室奈美恵もまた島津亜矢とつながる音楽の冒険の森にいたる果てしない道を歩んできたのだと思います。
昨年の紅白への出場を最終的に受け入れたのも、引退のライブツアーに来れないファンためだとされていますが、そのあたりもファンへの感謝を持ち続け、決しておごらず愚直に歌を歌うことでしかその気持ちを表せないと考えるところや、ベストアルバムの収録曲を手抜きせずわざわざ歌いなおしたと聞くにおよび、島津亜矢の歌への覚悟と心情につながっていると思いました。ほぼ同時代をまったく違った道を歩いてきた安室奈美恵の歌心と音楽的冒険もまた、まだまだつづく島津亜矢の旅のリュックに大切にしまっていってほしいと思います。
わたしはくわしく知る機会がないのですが、リズム&ブルースの奥底にある悲しみと怒りを感じる感性が安室奈美恵にあり、それは本土を守るために沖縄の人々を犠牲にし、戦後は沖縄を踏み台にした戦後民主主義の矛盾に育てられた少年少女の一人であったことと無関係ではないと思うのです。
ともあれ、島津亜矢がたとえば「一本刀土俵入り」や「瞼の母」を歌う時、今までどちらかというと「男歌」としてとらえられてきましたが、わたしは生まれ育ちから決して「期待される親子像」や「期待される家族像」とは縁遠い人生を送らざるを得なかった青年(少年)、非情な世界で生きざるを得なかった青年のかなしさと、それでもなくさなかった純情を、凛とした立ち振る舞いと少し遠くを見つめる瞳にかくしてまっすぐに歌いきります。
それはそのまま、これらの芝居を書いた長谷川伸の表現の核心でもあります。
長谷川伸の世界から生まれ、語り継がれてきたこの物語は、島津亜矢の歌の中でもう一度、傷つきやすい少年時代の官能的とも言える心の叫びとなってよみがえるのでした。
長谷川伸の描く義理人情の世界は、いつのまにかあまり表だったものではなくなりましたが、いまだに歌や大衆演劇などで語り継がれているのもまたたしかなことで、いま、もしかするとわたしたちの心の底で、もう一度長谷川伸を必要としているのかもしれません。
島津亜矢の場合も安室奈美恵の場合も、受け継がれてきた先人たちの歌の中にある歴史を知らなくても、歌そのものが歌うひとにもその歌を聴くひとにもダイレクトに純な心に届けてくれるのだと思います。
島津亜矢が最近また「一本刀土俵入り」をコンサートで歌っていると聴き、3月のフェスティバルホールで歌ってくれるかわからないのですが、とても楽しみにしています。
先日のNHKのBS放送の「BS新にっぽんの歌」で久しぶりに「一本刀土俵入り」を歌いましたが、ユーチューブなどで若い頃から最近までの音源がたくさんありますが、今回の番組での「一本刀土俵入り」はより進化しているように思います。
恩師・星野哲郎もそうでしたが、虐げられたり理不尽な悲しみに打ちひしがれているひとびとと同じ場所に立ち、その隠れた心情を歌うとき、島津亜矢の歌はもっとも輝き、もっとも遠くの心に届くとわたしは思います。

安室奈美恵「Hero」NHKオフィシャル・ミュージックビデオ

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