沖縄を植民地とする「本土」の民主主義の罪と危機 坂手洋二「天使も嘘をつく」

12月8日、伊丹のアイホールで坂手洋二作・演出、燐光群公演「天使も嘘をつく」を観ました。基地に囲まれた沖縄の状況を告発し、与那国、石垣、宮古、奄美大島に国が強引に進める自衛隊基地建設計画に反対する市民の運動の行方を模索する映画づくりと現実の運動が連動するドキュメント(メイキング)を演劇にするという、刺激的なものでした。
舞台は南西のある島。メガソーラー計画に疑義を呈する母親たちの会が、瀬戸内のある町のメガソーラー計画のことを撮影したドキュメンタリー映画の上映会をするために、その映画の監督クリモトヒロコ(竹下景子)、カメラマン(猪熊恒和)を島に呼ぶところからこの劇は始まります。
竹下景子演ずるクリモトヒロコ監督はそのドキュメンタリー映画を撮りながら、メガソーラーが完成したら、かねてから念願の劇映画の制作に着手し、ヒロインがその上を飛ぶシーンを夢見ていました。彼女が撮ろうとした映画「天使も嘘をつく」は「冷戦期のアメリカB級表現に於ける核恐怖」という設定で、「冷戦期」のアメリカB級SF映画の多くが、ソビエトや核兵器への恐怖心からうみだされたとする仮説に基づいています。「共産主義という名の全体主義」や「核兵器」への脅威が、多くの場合、アメリカの片田舎の街が未知の力や未確認生物に支配されるという展開をとらせるのです。一つの街が、宇宙からの生命体に乗っ取られようとする土壇場で、見渡す限り銀色に輝くメガソーラーを滑走路にして天使が飛び立ち、世界を救う…。しかしながら、映画の主人公のマナ(馬渕英里何)がパラグライダーで飛行中に墜落死し、映画は未完成のままになっていたのでした。
島にやってきたクリモトヒロコは、反対運動のメンバーのひとり小百合がマナにそっくりなのに驚きます。
そして、メガソーラー計画を隠れみのにした自衛隊基地の配備計画が明るみに出ます。
映画のカメラが入ることで、住民もまた国の権力と立ち向かうことにおびえ、萎えてしまう心を奮い立たせます。映画作りと現実の運動が重なり、島の住民はその境界を行き来しながら、現実の運動も映画も芝居ものっぴきならないところへと追い込まれていくのでした。
この芝居のモデルのひとつである「てぃだぬふぁ 島の子の平和な未来をつくる会」は子育て中の母親たちが結成した会で、平和のこと、憲法のこと、そして自衛隊配備のことなどを一緒に勉強しながら、一人一人の中にある不安や希望を共有できたらきっとよりよい未来をつくっていけるはずと、映画会や学習会や住民説明会をたびたび開き、粘り強い運動をつづけています。
11月30日には沖縄県庁を訪れ、安慶田副知事に対し先島諸島への自衛隊の新基地建設に反対するよう強く求め、「先島諸島への自衛隊配備に反対する要請書」を手渡しました。宮古と石垣の自治体では自衛隊配備への反対決議が採択されています。また、彼女たちは宮古の住民にとどまらず、石垣島の「いのちと暮らしを守るオバーたちの会」などそれぞれの島の住民たちともつながり、大きな交流会に参加したり、高江で共闘のアピールをしたりと、粘り強くしなやかなその活動は宮古から石垣、沖縄本島、そして全国の市民に静かな共感を広げていきました。

彼女たちの切実な願いと言葉はほとんど脚色されずに登場人物たちの言葉や叫びとなっているのですが、芝居という物語、フィクションの中でそれらの言葉や叫びはその物語の中から生まれたように現実から一人歩きしていきます。そして、現実よりも先に自衛隊基地の建設がすすめられようとする時、カメラマンの写し取るドキュメンタリー映像はクリモトヒロコの頭の中にしかなかった映画「天使も嘘をつく」そのものとなり、映画のシナリオのラストシーンに向かって登場人物は森の中のバリケードへと追い込まれていきます。
迫りくる自衛隊基地も国の暴力も、映画の中ではアメリカのB級映画さながらの宇宙人で、最後の砦で地球人は最後の抵抗の準備をします。
この先絶望の未来が待ち受けているとしても、天使が嘘をつき、今日の希望と勇気を人間にくれるのだとしたら、島の平和な暮らしを支えてきた森の中で国の暴力に毅然と立ち向かわなければいけないのは舞台の登場人物だけでなく、映画のメイキングを見届けてきたわたしたち観客も、そして現実の沖縄のひとびとだけではなく日本人全体と、坂手洋二がこだわってきた戦後民主主義そのものではないでしょうか。
映画の完成を待たずに死んでしまったマナと小百合は合体し、見えない羽根があっても飛べなかったマナと一緒に小百合とクリモトヒロコは両手を広げ、地球を救うために飛び立とうとします。みんなが、「あっ、浮いている」と叫び、芝居は終わります。

2時間ぶっ通しで叫び続ける役者の言葉の数は大変な量で、実際のところ未消化の言葉によるアジ演説のように理解できない部分があったり、演出意図なのでしょうが劇映画とドキュメンタリー映画とそのメイキングとしての演劇という3重構造が魅力である一方で、どうしても現実の運動の方に引っ張られてしまう傾向もあったかもしれません。
しかしながらわたしは、現実の運動のリアリティだけでは届かないサイレントマジョリティへの問いかけが、もしかすると映画や芝居や歌などのフィクションなら越えることができるのかも知れないという希望を感じました。
そして映画「天使も嘘をつく」が実はこの芝居そのものだったのだと気づいたとき、この劇場・アイホールが森の中のバリケードで、この劇場の外には宇宙人がぎっしり戦列を組んで今にも突入しようとしているのではないか。そしてわたしもまた沖縄を植民地とする「本土」の日本人として戦後民主主義をむさぼりくってきたのではないか。それゆえに危機に瀕している戦後民主主義を救うために、このバリケードから飛び立つ勇気を持たなければと思いました。
それにしてもそうそうたる役者を扇動し、観客のわたしにまで「お前はどうする」とせまってくる坂手洋二という人は、演劇によって世界を時代を現実を変えることができると固く信じていて、最近の小劇場のような予定調和的でこじんまりした芝居とは似ても似つかぬ骨太で心を波立たせる痛い芝居をつくるひとだとつくづく思いました。

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