稲葉振一郎・立岩真也「所有と国家のゆくえ」2

障害者の所得保障や就労の場づくりをすすめてきたわたしたちにとって、立岩さんの論旨には拍手をおくりたいとは思うのですが、二人ともがおっしゃるように、それはある意味わたしたちの世界の中でしか通用しないというか、社会全体の中で議論され、鍛えられなければならないとつねづね考えてきました。そのことは障害者の生きる権利、自分の人生は自分で選ぶ権利もまた、別にはないと思います。
わたしたちはそのよりどころを憲法や人権にもとめてきたのですが、そのことは「立法」、「立憲」によって具体化され、それを実行する役割を持つのは国家であり行政機関であることから、運動のある部分、時によってはかなりの部分を国や行政機関との交渉に費やしてきたとも言えます。そこでは今までの二人の議論にあるように、すべてのひとが納得し、国家を通さずに合意と了解がえられるはずはなく、マイノリティの権利を獲得するにはある意味、国家と対置するだけでなく、国家の権力行使に期待してきたとも言えるのです。

豊能障害者労働センターはある意味、障害者運動の理念とはかけはなれた所から出発していたのかもしれません。もちろん、前代表の河野秀忠氏は障害者運動の黎明期から障害者の生きる権利を獲得する運動に参加してきた人ですし、障害者運動の歴史を当時の若いスタッフによく話をしていましたので、本来ならもうすこしちがう道を歩むこともできたのかも知れません。
しかしながら、河野氏は豊能障害者労働センターの行く先は豊能障害者労働センターが決めるべきであって、運動の先輩を尊敬はしても、この運動はある意味でまだ若く、どんな可能性もあるのだから、自分で問題と対置し、自分で道を切り開くことを若いスタッフに求めたのでした。
そこで、豊能障害者労働センターがはじめたことは地域のひとびととの共生でした。もちろん最初は役所に行き、障害者が地域で暮らしていくためにみんなで働いて生活していくのだからと福祉助成を求めましたが、「障害者が保護され、訓練を受けるのであれば福祉助成の対象となるが、働くと言うならそれは労働行政で、国の労働省に行ってくれ」と言われました。それならば「そんな福祉はいりません」とケンカ別れとなり、それなら市民に訴えようと考えました。
それも最初は労働組合や他の市民運動、そして「福祉奉仕員」といわれていたボランティア団体などに訴え、あるところまでは支援をいただいたのですが、そこでも「障害者のことを言ってるのは別の意図があるのやろ」とか、「障害者の就労って、役所で雇えとか言ってるのは本気とちがうんやろ。それをネタに助成金をとろうとしてるんやろ」とか言われ、またケンカ別れ、ボランティアのひとたちには「障害者をネタに健全者が怖い運動をしようとしている」と言われ、またまたケンカ別れ。
結局、設立準備段階で協力的だったひとたちは半年後、いなくなっていました。わたしたちはただ、障害のあるひともないひとも一緒に働き、暮らしていこうと言ってるだけなのに…。
脳性まひの青年2人と健全者3人で、最初にはじめた粉せっけんの販売では生活していけるはずもなく、週に一度梅田駅で募金活動をすることで食いつないでいたものの、これでは「労働センター」の名が泣くでと、地域の女のひとたちがでしゃばって(応援して)、まずは路地裏の袋小路にあった事務所で、たこやきの店「れんげや」を開きました。
このときにお店の看板を書いたのが現代表の小泉祥一さんで、その才能を買われて今、国際学会のロゴまで描く「画伯」として、労働センターのオリジナルTシャツのデザインで活躍しています。
たこ焼き屋を開くとあって、数少ない知人、友人が事務所の一角の改造を手伝ってくれました。中でも三上寛とも共演したことのあるブルース・シンガーの玉野井徹さんが、芝居の大道具をつくる要領で手伝ってくれて、それからしばらく「れんげやライブ」と称して月に一回事務所で歌ってくれました。アメリカの荒野からたどりついたブルースを聴いたのはその時がはじめてでした。
わたしはそれ以後、けっこう長い付き合いでしたが、彼が東京に行ってからはほとんど会わなくなってしまいましたが、そして歌の方もしばらく歌わなくなっていましたが、最近会社の近く、東京お茶の水のロックカフェ・Woodstock Caféでライブをしていて、古巣神戸でもライブをしたのを久しぶりに聴きにいきました。
路地裏で人通りもないところでたこ焼き屋を開いたものの、お客さんの姿は皆無で、数少ない応援者が「しゃーないな」と買いに来てくれるのを待っていました。
そんな中で、はじめて支援者でもない地域のひとがたこ焼きを買いに来てくれました。
そのひとが、いまも阪急箕面線桜井駅すぐのところでケーキ屋をしているSさんで、彼と彼の友人が買いにきてくれたことが、ほんとうにうれしかった。
Sさんは、いまも豊能障害者労働センターをずっと応援してくれる大切な友人です。
豊能障害者労働センターがお店をすることになったのは、ひとつは設立時の応援団体ほとんどに嫌われ、そのなかの何人かがひっそりと応援してくれている現状から、もっとたくさんの地域のひとたちに自分たちの存在を知ってもらうことと、お金をかせぐことの他に、もうひとつ理由がありました。
実はこの時、知的障害といわれるYさんという女性がスタッフになったのですが、このひとにしてもらう仕事がなくてどうしようかと話しあったのですが、どうもYさんはひとが好き、とくに男がすきだとわかりました。実際、彼女は通常は横になつて何もしてくれないのですが、男のお客さんが訪ねてくると突然手鏡をのぞいて真っ赤な口紅を塗り、にっこりと笑って「いらっしゃい」とあいさつし、握手するのでした。
この才能を生かすにはお店しかないと思い、ちょうど地域の女のひとたちがおせっかいを焼いてくれたこともあって、まずは路地裏の袋小路にあった事務所でたこ焼き屋をすることになったのでした。

積木屋・豊能障害者労働センター

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