障害者に学ぶコモンウェルス 豊能障害者労働センターのバザー

仲間を信じ、他者に人生をゆだねるからこそ得られる自分らしさ

 7月7日、箕面市立メイプルホールのロビーで開かれた豊能障害者労働センターのバザーをのぞきに行きました。
 1995年の阪神淡路大震災の時、豊能障害者労働センターは被災障害者に救援物資を届ける拠点として救援活動に参加しました。救援物資は日々一刻と求められるものが変わっていきました。そこで当時200人もの市民に助けてもらい、役割を終えた救援物資をお金に変えるために救援大バザーを開き、売上全額を救援金としました。
 それがきっかけで豊能障害者労働センターのリサイクル事業が立ち上がり、2023年現在、障害者スタッフが担い手として活動する4つのリサイクルショップを運営するほどの大きな事業となりました。
 機関紙「積木」による商品提供の呼びかけから回収、仕分け、値付け、店舗での接客と、障害者スタッフが活動する姿は、すでに「福祉」という枠組みを越え、「共に助け合う町づくり」の担い手としてかけがえのない存在となっています。
1995年以降も箕面市内に限らず近隣の市町村からもバザー用品の提供が増え続け、毎年春に開いてきた大きなバザーにもたくさんのお客さんが詰め寄る、箕面の隠れた風物詩になっていました。しかしながら、新型コロナ感染症の影響で人がたくさん集まるイベントができなくなったため、小さなバザーを年に2、3回開くようになり、リサイクルショップとの連携を深めなんとか苦しい状況を乗り越えてきたようです。今回久しぶりにのぞいてみたら大変な盛況で、大きなバザーのリスクを考えるとコストパフォーマンスも高く、素晴らしい経営転換だと思います。
 そんな労働センターですが、昨年末から今年はじめにつぎつぎとベテランスタッフが亡くなり、大きな悲しみに心が沈む中、従来からの人手不足に追い打ちをかける事態に陥りました。労働センターの場合、ただ単に職場の同僚が亡くなったということにとどまらず、暮らし全体に及ぶ深い友情をはぐくみ、共に生きてきた仲間を失ったわけで、専従スタッフひとりひとりの心が壊れてしまわないかと心配でした。

夢に追いつき、夢を追い抜き、夢をつくりだす希望の実験農場

 バザー会場に入るとそんな取り越し苦労を吹き飛ばすかのように、それぞれの持ち場で役割を果たす障害者スタッフは活気にあふれていました。その様子にひと安心するとともに、豊能障害者労働センターの底力をあらためて感じました。実際、豊能障害者労働センターの場合、障害者スタッフが事業の端から端まで役割を担っていて、お客さんもまた障害を持っているとか持っていないとかに特別な意識を持たず、障害者スタッフの接客を当たり前と感じていることが伝わってきます。
 このことはどれだけ言葉で説明してもわかっていただけないことが多いのですが、とにかくハザー会場に足を踏み入れた途端にさわやかな風につつまれるのです。
 その特別な空気は一朝一夕に生まれるものではなく、開設以来41年、専従スタッフをはじめ労働センターとかかわってきたほんとうにたくさんの市民が培ってきた長い歴史を通して、それぞれの時代を支えてきたひとたちの夢や願いや祈りや憤りさえも労働センターの現在を照らし、導いてきたからではないかと思います。わたしもまた1987年から2003年までその歴史に立ち会い、参加させてもらったことはわたしの人生における最大の誇りでもあります。
 わたしが在職時、見学に来られた方が「ここの障害者のひとたちの目には福祉というカーテンがなく、健全者の顔色をみたり、よくありがちな忖度も遠慮もなく、直接的でギラギラしている。その目が対等であろうとするこの組織をどんな言葉よりも証明してる」と言ってくれた言葉を思い出します。
 わたしが退職してすでに20年、スタッフの顔ぶれも大きく変わっていても、若い障害者スタッフのギラギラした目はあの頃とまったく変わりません。仲間を信じ、仲間に身をゆだねることを恐れない勇気を学び合い、本来の自立を獲得する…、昨年惜しくも亡くなったFさんをはじめ、豊能障害者労働センターに参画する障害者が世代も時代も越えてつないできたポリシーが、このバザーをこんなにも素敵なものにしているのだと思うのです。

木枯らしが吹き荒れる中、100年の荒野の向こうにあるもの

 振り返れば1982年春、2人の障害者を含む5人で始まった豊能障害者労働センターの前代表・河野秀忠さんは、彼の長い組合活動や反戦平和・障害者運動の果てに、豊能障害者労働センターで壮大な実験を試みたのだと思います。
 当時は崩れかけた古い民家で、車いすを利用する障害者2人の行動も保障できず、冬はビールを冷蔵庫に入れないと凍ってしまう環境の中、毎週日曜日に梅田でのカンパ活動でしのぎ、夢と野望だけで厳しい現実を笑い飛ばしていました。
 河野さんは明日にも転覆するかも知れない小舟に彼女彼らと一緒に乗り、世界と世界に生きる人々の心とつながることをめざし、その壮大な夢に身を投じたのでした。

1.障害のあるひともないひとも、財布はひとつ。得たお金はみんなで分け合う。
2.誰かの問題は、本人のいないところで話さず、必ず当事者が参加して考える。
3.運営委員会は障害者を含むすべての専従スタッフが参加する。

 豊能障害者労働センターという小舟が大海を航行する巨大な船となり、未完の夢が確かな現実に結実してもその果実をわたしたちだけではなく世界の人々と分かち合うという、河野さんが掲げた組織運営の原則は労働センターの門戸を市民社会に開放し、その理念を世界にまで問うものでした。
 障害者を「保護・訓練」の「福祉の枠」に閉じ込めず、また一方で一般事業所のように人件費をコストとせず、むしろ障害者スタッフの手に乗る人件費の総額を経営成果とする労働センターの理念は、長年、富の分配として社会保障の対象にされてきた障害者を労働者として社会に迎え入れることでした。さらに言えば障害者の権利として「富の分配」でも「機会の均等」でもなく、そもそも富を生む場に障害者をそのまま迎え入れる「参加の権利」を実現することで、「福祉を必要とするのではなく、福祉を必要としない」社会の実現なのです。
 富の蓄積と分配を「私企業」にゆだねる資本主義社会でもなく、「人民による人民のため」として、富の蓄積と分配を国家にゆだねる国家社会主義社会でもない新しい第三の道…。それは、福祉の対象でもなく、ひとつの協同組合のアソシエイトとして障害者スタッフ全員が労働者としてだけでなく、共同経営者として組織をになっていく権利を保障することでした。

おお季節よ城よ、無傷な心がどこにある

 設立当初は「障害者に理解できない会議に出席させるのはかわいそう」と言われたりしても、河野さんは頑として受け付けず、障害者スタッフが作るレジュメのタイトルが「出城」(パソコン誤字)になっていても笑って訂正し、会議をつづけました。今では数十人ほどのスタッフが会議に出席し、障害者同士で「今日は会議やで」と楽しんで臨むようになり、また会議の進め方もみんなで問題を考えられるようにさまざまな工夫をされているようです。
 そして、最優先の原則「財布がひとつ」の理念は、活動で得たお金をみんなで分け合い、経営の苦しさも共有することで裏付けられる対等性がおのずと形になり、その積み重ねてきた経験がバザーに関わらずセンターのすべての事業をキラキラ輝かせているのだと思います。
 今、労働センターは大切な仲間を亡くしたことや慢性の人手不足で、理念が揺らぎかねない危機を迎えているとも聞きますし、SNSの時代にあってネガティブなうわさもあるかも知れません。しかしながらそれは当たり前のことで、設立当初は福祉関係のひとから過激派と言われていました。
 さまざまな修羅場をくぐりぬけてきた河野秀忠さんが「最後の冒険の場」、「壮大な実験の場」として彼の持てる背丈を越える夢の力を信じ、深く愛した豊能障害者労働センターは、彼が想像し、託した世界のありようを不器用ながらも実現していることは間違いないと思います。
何があってもへこたれず前を向く障害者スタッフのキラキラした瞳が、それを証明していることを実感した一日でした。

さあ、窓を開ければ青い空、瞬きするだけで世界は変わる。