さらば豊能障害者労働センター4

 1988年からはじめたカレンダーの通信販売は、わたしたちの予想以上の反響をいただき、1年目は2800枚、2年目は4000枚、3年目は6000枚、そして4年目は10000枚の大台に乗りました。
 この4年間に、それ以後現在に至るまでの販売方法が確立されました。電話セールスは最初の年は主に箕面市在住の機関紙読者を対象に無作為にしていましたが、2年めからは前年に購入していただいた実績をもとに働きかけをしました。というのも、1年目からコンピューターによる売り上げ管理システムを構築し、販売実績が蓄積されるようにしましたので、より精度の高いセールスができるようになったのでした。

 コンピューターによる売り上げ管理は既成のソフトを買うお金もなく、そもそもコンピューターを買うお金もありませんでしたので、最初のコンピューターはわたしの私物を提供し、ソフトも自分で作るしか方法がありませんでした。福祉助成団体に助成金申請も試みたのですが、今の時代、コンピューターは必需品になっていますが、当時はまだ湯沸かし器や流し台などへの助成が多く、コンピューターは贅沢品で助成対象と理解してもらえませんでした。
 コンピューターに入力するための受注販売伝票や決済伝票など、一般企業ではあたりまえの仕事ですが、障害者団体では初めての試みといってもよくて、「障害者に向いていない」とか「労働センターを企業にしようとしている」とか、さまざまな反対意見がありましたが、少ない人数で全国的な通信販売をするにはこれしかないと、最終的には合意を得ました。
 機関紙での働きかけからは最初は申し込み用紙をFAXや郵便で注文をもらいましたが、そのうちに申込みハガキを作成し、より簡単に注文を頂けるようにしました。また、機関紙の送り先も一部をDMとして全国の学校、保育所、福祉団体へと拡大し、しばらくはその宛名書きのボランティアを呼びかけたところ、箕面市在住の方をはじめ、たくさんの方々が応えてくださり、このことがお店だけでなく事務所と直接つながりを持ってくださるようになり、後のバザーのお手伝いをしてくださることになって行きました。
 働きかけの件数が多くなってくる中で、今ではDM対象リストを市販の電話名簿から作成し、コンピューターから印刷するようになっています。
 電話セールスは数年の販売実績リストを作成し、全国の読者に電話するようになりました。電話は迷惑ではないかと緊張しましたが、前年に購入していただいた方は電話がつながればほぼ注文を頂ける他、日ごろの活動を機関紙でお知らせしていることもあり、かえって喜んでくださる方も多く、とてもうれしく思いました。

 学校や保育所、市役所、社会福祉協議会、一般企業、あるいは個人のグループの方々にはカレンダーの見本を進呈し、周りの方々にご案内の協力をお願いしました。機関紙のDMによって前年にこたえてくださったグループには翌年には早速見本をおくるようにしたところ、一時は1600件も見本を届け、平均で7000本以上の注文を頂きました。また、前年に10本以上の注文をいただいたところや、以前からの応援者には最初からカレンダーをお預けし、販売の協力をいただきました。

 また、新聞各社にカレンダーの紹介記事をお願いし、毎年掲載していただきました。最初は4大新聞だけでしたが、すぐに全国の地方紙にもお願いし、さらには全国各地のタウン誌にも掲載していただくようになりました。各地の新聞でご覧になり、注文していただいた個人の方々にその後機関紙をお届けし、翌年から電話でお願いし、注文をいただくことでカレンダーの販売数も増えただけでなく、機関紙読者の数もどんどん増えていきました。
 地方紙は四大新聞と違い、それぞれの地域に根差していて、地域を愛する新聞と読者の並々ならぬ支えによって発行されてきているため、これらの新聞に掲載されることはその地域の人々に認められ、信用されることにつながりました。
 とくに忘れられないのは北海道新聞と中日新聞でした。北海道新聞は毎年と言っていいほど掲載してくださり、それにたくさんの北海道のひとたちが応えてくださいました。そのため、北海道在住の機関紙読者の数がいっきに増えました。中日新聞はある年、記者の方から電話をいただき、「送られてきた資料を見て、デスクが労働センターの活動とカレンダーの記事を書くようにと言われたので」と電話で取材していただき、掲載されました。するとおよそ500人の読者の方々から注文が殺到し、その上匿名で50万円の寄付金が送られてきました。わたしたちはびっくりするとともに、なんとかお礼を言えないかと思いましたが、どなたかはわからないままでした。

 さらには、このカレンダーを一緒に販売してもらえる協力団体を増やしていくために、機関紙で呼びかけたり、ここはと思うところに電話をしたり、時には広島、福岡に遠征し、協力団体を増やしていきました。協力団体は毎年増え続け、一時は協力団体に届けるだけで10000本を越えました。
 これらの活動が重なりあい、相乗効果で1997年には32000本を届けるところまで広がりました。
 さて、ここまでサクセスストーリーと思われることを覚悟で書いてきましたが、カレンダーの通信販売は障害者の雇用と所得保障をするためだけに事業をするわたしたちの活動そのもので、メディアもふくめてたくさんの方々がわたしたちの思いや願いや希望をささえてくださったおかげで大きな事業になったのだと思います。
 わたしは当時から、この事業を市民参加型の事業なのだと考えました。カレンダーという単なる商品を受け渡しするのではなく、豊能障害者労働センターの活動の理念や願いをわかってくださり、共にその活動を支え、参加してくださる方々に届けられる1年に一度のお手紙として、カレンダーがあることを学んだのでした。
 社会福祉法人でも企業でもないわたしたちには、大きな後ろ盾などまったくありません。あるのはわたしたち自身が語る言葉、わたしたちの夢がたくさんの方々の夢と出会い、切ない希望をたしかな現実に変えていくために語り続ける言葉しかありませんでした。
 場合によっては「いかがわしい」と思われても仕方がない自主的な任意のグループであるわたしたちですが、時代の悲鳴とともに聴こえてくるたくさんのメッセージとともに、わたしたちの必死の訴えもまた、たくさんの方々に受け入れられたのだと思います。

積木屋・豊能障害者労働センターのホームページ

さらば豊能障害者労働センター4” に対して3件のコメントがあります。

  1. 歳三 より:

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    tunehiko様

    さらば豊能障害者労働センター
    ①〜 ④通して読ませていただきました。

    tunehikoさんの崇高な理念に基づく
    気の遠くなる様な長年の努力と優しさに
    敬意を表します。

    私自身は今、とても落ち込んでいます。
    理由は私が30年間やって来た事と余りにも
    違うからです。今まで私がやって来た事は
    一体何だったのかと言う思いです。

    実は私は30過ぎで風来坊生活のケリをつける為に就職を試みましたが、当然相手にして
    呉れる会社など有るハズも無く、それではと
    無謀にも、ある技術系の会社を作りました。

    以来、休みも正月もなく、寝る時間も
    惜しんで仕事をしました。

    常におカネの事が頭から離れず、
    「カネが命でカネが仇」状態の毎日でした。

    世間のアカに汚れた私にはtunehikoさん
    の文を理解出来ない事が所々有ります。
    どうぞご教示下さい。

    1> 八幡さんがにこにこ笑いながら

     おカネが無いのにどうしてニコニコ
     楽観的なのでしょうか?・・・・・スゴい!

    私の場合はギスギスして目が吊り上り
     余裕が無く、他人に優しく出来る
     ハズもなく、当時のスタッフに
     申し訳なく思っています。

    2> 「共に働き、事業をし、給料をわけあう」   という活動など、その母親には
      考えられないことだったのでしょう。

     恥ずかしながら、私もこのブログを読んで
     初めてそういう考え方が有る事を
     知りました。

    3> 経営の成果を利潤に求めるのではなく、どれだけ障害者の雇用と給料の向上に成果があるかをいつもかんがえるようになったこと。そして、それらのルールづくりはそのまま、豊能障害者労働センターが一般企業に就労できない障害者の働く場をつくり出し、給料をつくり出すことにとどまらず、障害者が中心になって参加、運営を担う社会的企業として組織変革し、障害者の問題をはじめとするソーシャルビジネスを進めていくことでもあることを学びました。

    すみません、愚問ですが
    どうして、他人である障害者にそこまで
    寄り添って生きて行く事が出来るのですか?

    私なんぞは自分の事しか考えていません
    でした。

    4> 狭い「福祉」の枠にとどまらず、広く一般市民に直接働きかける販売方法へと変わりました。

    サイレント・マジョリティーを振り返させる
    事は並大抵な事では無いと思います。
    そのご苦労に敬意を表すると共に何でも自分で処理してしまった私の反省点でも有ります。それだけ人間は育てる事が出来ませんでした。

    ※※※
    寺山修二を読んで下の文にドキッと
    させられました。

    不満屋ってのは世の中との折り合いが悪いんじゃなくて自分との折り合いが悪い奴のことなんだから

    私の事を言われているようでトテモ落ち込みました。さらに冒頭にも書きました様に
    tunehikoさんの文を読んで落ち込みました。

    しかし、今、気付いても決して遅くは無いとも思っています。これからの生活に
    活かして行きたいと思っています。
    ありがとうございました。

    67年も生きて来ても知らない世界は
    たくさん有るものですネ、

    島津亜矢さんの事
    tunehikoさんの様なスゴい活動の事

  2. tunehiko より:

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    歳三様

    ごめんなさい。
    このブログではわたしの個人としてのできごとや感じたことを書いていまして、当然違う感じ方をする方々がたくさんおられることを前提に書いてきましたが、読んだ人を落ち込ませてしまうとは思いもしませんでした。
    それは、わたしの筆力のなさ、表現力のまずしさから来るものです。自分が経験したことにとらわれてしまい、わたしの常識を説明が足りないまま書き連ねてしまいました。
    その上で、もう少し詳しく書いてみます。

    まず最初に、「崇高な理念に基づく気の遠くなる長年の努力と優しさ」と書いてくださいましたが、それは少し事情が違うのです。
    わたしもふくめて、豊能障害者労働センターに集まったいわゆる「健全者スタッフ」もまた、実は一般企業に就職しにくい人たちなのです。わたしの場合も長年「吃音」に悩む「対人恐怖症」で、普通の会社ではなかなか働きにくい人格でした。会社勤めがつらくなってしまった人や、介護や子育ての関係で、頼れる親もいなくてフルタイム働けない女性や、障害者とはいえないけれど、やはり精神的にしんどくて働けない人…。さまざまな働きにくい人たちが、貧乏でもなんとか暮らしていくために労働センターを拠点にして今も活動しています。
    それと、障害者とかかわるというと、特別なことのように思われがちですが、わたしの場合はただ単に障害者と友だちになっただけで、その友達の障害者も障害があるという理由だけで働けないのなら、働けないもの同士でみんなで会社を興そうと考えただけなんです。
     ですから、歳三様が会社を設立し、休みも正月もなく、寝る時間も惜しんで仕事をされてきたこひとや、「カネが命でカネが仇」の毎日だったとお話されていることが、少しはわかる気がするのです。
    実際私もお金をつくり出すために夜中まで働いてきました。寺山修司のエッセイで知ったのですが、フランク・シナトラの歌の中に「もしも心がすべてなら、いとしいお金はどうなるの」という歌詞があるそうで、わたしはいつも夜おそくまで働きながらこのセリフをくちずさんだものでした。
    1.お金がないのにどうしてニコニコ楽観的なのでしょうか
    それは、笑うしかないからでした。そんなに経営力があるわけでもなく、その頃は助成金などゼロでしたから、みんなの手元にお金が乗るのは至難の業だったのですが、ほとんどインスタントラーメンだけで暮らしていたひともいたり、連れ合いが働いていてなんとか暮らしていました。これは先進資本主義社会で、相対的には赤貧以下でも絶対的にはなんとか食べ物にはありつける日本だったからで、もともとその社会全体が貧困である場合は成り立たなかったと思います。
    ですから、歳三様のように、社員の方々に給料をきちんと手渡すことは並大抵のことではなかったと思いますし、大変な努力をされたことと思います。

    2.「共に働き、事業をし、給料をわけあう」というのも、なにも特別なことではなく、ここまで書いてきたことでわかってもらえないでしょうか。豊能障害者労働センターは障害者も健全者も、一般企業で働くことが難しいひとたちの駆け込み寺のような存在なんです。
    みんなが暮らしていくためには、少ないお金を分け合うしかないだけなんです。
    むかしも今も、運よく多くのお金を稼げた時も努力が足りず充分なお金を稼げなかった時も、みんなで分け合うだけなんです。
    ただ、楽なのはお金はなくても、また自分のやりたいことを充分にはできなくても、反対に自分が苦手なことは他人の助けを借りられることなど、自分らしく働くことは、一般企業よりは少しはできます。

    3.他人である障害者にそこまで寄り添って生きていくことができるのか?
    これもいままで書いたことで少しは推察してくださると思うのですが、障害者は特別なひとたちではないと思っています。強いて言えば少しきわだった個性の持ち主で、彼女たち、彼たちと友だちになっただけで、言い方を変えれば障害者もまた、わたしの友達になってくれただけなんです。世間で思われているように、障害者とかかわることは「やさしいこと」でも、ましてや「立派なこと」でもないと思います。また障害者と言うと「助けがなくては生きていけないひと」と思われがちですが、それは誰でも一人では生きていけないのと同じことでしょうし、わたしの経験では、障害者に何度も助けてもらいました。
    つまりは、やしきたかじんではありませんが、「やっぱすきやねん」としか言いようがありません。自分が好きなのであって、決して大変な仕事をしているわけではないのです。
    ちなみに、わたしは実のところ、「福祉」という言葉もその仕組みもあまり好きではありません。

    4.については、結局一人より2人、2人より3人と、いろんな人と出会う楽しみは誰もが感じることですが、その出会う相手の中に、際立った個性の持ち主として障害者もいてくれて、ほんとうに幸運だったと今は思います。

    いろいろ書いてしまいましたが、わたしは歳三様とこんなことを語り合えることがうれしくて、このブログをはじめてよかったと思いました。
    最後に、どうかこのブログのために元気をなくされませんように、お願いします。

  3. 歳三 より:

    SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    tunehiko様

    ありがとうございます。

    私の書き方が悪かったです。
    (実は投稿してから、文章が深刻過ぎでは
    なかったかと心配してました)

    文面ほど深刻に落ち込んでいる訳
    では有りません(笑)

    只、私の知らない世界の事に興味が有りましたし、同じ様におカネの苦労をする上で
    どの様な心境だったのか興味がありました。

    世の中には私の考えもしないやり方も
    有る事を教えて頂きたいました。

    細かく説明して戴いて何となくtunehikoさん
    の心境とか雰囲気は理解出来た様な気がします「ホントは何も分かってないかも(笑)」

    tunehikoさんは多分に謙遜されて説明されて
    いますが、例えば、カレンダーの売上が年々増えて行く所などスゴいと思います。
    ノウハウをご教示して戴きたい位です(笑)

    一期一会といいますが、私がこのブログを
    読み始めて tunehikoさんの青春時代の事を知った時、「よお似た境遇やなぁ」
    と思いました、更に 障害者労働センターの
    奮戦記を読んだ時、「おんなじやんか」
    と思いました。

    これからも時々
    亜矢さんの事、
    バカ話、深刻な話

    色々な話をして下さったら嬉しいです。

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