さらば豊能障害者労働センター2 お店の運営で学んだこと

 豊能障害者労働センターが設立された1982年ごろは、国際障害者年をきっかけに変わりかけてはいましたが、障害者の問題を人権問題や社会問題としてではなく、「かわいそうなひと」への福祉活動の対象としてとらえる空気が多々ありました。ボランティア活動も「奉仕活動」といわれることもまだ残っていました。
 そして、社会を構成するかけがえのないひとりの市民として障害者を迎え入れることをめざした国際障害者年の「完全参加と平等」という垂れ幕だけはどこの市役所にも垂れ下がってはいたものの、一部のボランティアの人たちを除くと、ほとんどの市民は障害者と生活の中で出会うことがほとんどない時代でもありました。
 もちろん、制度が確立されていない中、福祉政策に裏付けられた助成制度も貧弱なだけでなく、助成制度の目的も未来への展望も、障害者をひとりの市民としてその市民権を獲得していくには程遠いもので、ほとんどの障害者が経済的な基盤を親元にたよらざるを得ませんでした。

 そんな現状の中で、一般企業が雇わない障害者の所得をつくりだそうと活動をはじめた豊能障害者労働センターでしたが、最初の事業である粉石けんの販売ではどうにもならず、毎週日曜日の募金活動でしのいでいたことは前回に書きました。
 その次にはじめたのがお店の経営で、たこ焼き屋、衣料品店、百円グッズの店、クリーニング屋、ファンシーグッズ、食堂、福祉ショップ、リサイクルショップと、1983年秋から現在にいたるまで、すでに閉めたお店もふくめると7つの場所で業態を変え、現在はリサイクルショップ3店と福祉ショップ、食堂の5店舗を運営しています。
 経営的には、障害者スタッフもふくめてそれまで商売をした経験がまったくなく、応援してくれるひとたちのアドバイスとまわりの商店の見よう見まねで、いわば「お店ごっこ」といってもいい状態でした。ですから、当時のまわりの商店がしのぎを削って運営していたことも、それでも成り立たずお店を閉めざるをえなくなった商売の厳しさもわかるはずもありませんでした。それでも、とにかく「継続は力なり」の言葉通り、細々ではありましたがお店を維持し、お店を増やしていきました。

 事業の開業資金や運営の維持費など、一般的な事業なら銀行融資による借入とそれを何年計画で返済していくかという事業計画を立てるのが本来の在り方ですが、そんな商売の常識はわたしたちにはまったくありませんでした。
 今でこそ、NPO法人化された他の障害者団体の場合には生活介護に対する国の制度にもとづく事業計画を立てなければならず、またそれに基づいた銀行融資が可能になっていますが、わたしたちには事業計画を立てるような経営力も経験も担保にできるものもなく、銀行の融資の資格に沿うものがありませんでした。
 銀行融資も望めず、少ない助成でかろうじてつながっていた箕面市からも当時は事業計画を求められもせず、つまりどこからも相手にされていないわたしたちは、自前のなけなしのお金から開業資金をあて、思いついた時に思いついた場所でそれぞれの障害者の希望をエネルギーにお店を開き、維持してきたのでした。
 その頃「トヨタの無借金経営」が話題になっていましたが、わたしたちもまたそれに匹敵する無借金経営でした。もっとも、わたしたちの場合は銀行が貸してくれないので自前の資金しかない完全無借金経営しかやりようがなかったのでした。おおざっぱな目標は立てるものの行き当たりばったりといえる経営で、他の福祉団体のような助成金運営でも介護報酬による運営でもなく、一般の小売業とおなじ一枚の服、一食のランチ、一枚のおむつを販売する事業収益で運営しようというものですから、たとえ借金しても返せる当てなどあるはずもありませんでした。

 そんな堅実で貧弱な経営でありながらもお店を続けていくことで、わたしたちなりのルールができて行きました。わたしは悪戦苦闘のお店の運営を通じて、そのルールが豊能障害者労働センターにとって大切なだけでなく、日本や世界の「もうひとつの経済」のありようを提案するひとつのアイデア・理念と考えるようになりました。
 最初の頃はサポートスタッフとして運営に参加し、今ではメインスタッフとして障害者が運営の責任を担う場になったこと、そのことは労働センターの活動の在り様にも重要な変革となったこと。
 公的な助成金や介護報酬による事業では専門の職員やボランティアなど、いわゆる「福祉」に囲まれてしまう障害者が、お店の運営を担うことで一般の市民のひとびとと直接対等に出会える場となったこと。それは講座をしたり啓発活動をするよりもはるかに意義のある啓発活動であること。
 最初は「福祉」に協力するカンパ(募金)活動のひとつとしてお店に来ていた市民のひとびとが、一般のお店と同じように商品の善し悪しやサービスなど、いろいろなアドバイスをしてくれるようになったこと。
 なけなしのお金をつぎ込む分、経営の失敗は命取りとなることを自覚し、一般の融資条件とはまたちがう費用対効果を真剣に考えるようになったこと。
 経営の成果を利潤に求めるのではなく、どれだけ障害者の雇用と給料の向上に成果があるかをいつもかんがえるようになったこと。
 そして、それらのルールづくりはそのまま、豊能障害者労働センターが一般企業に就労できない障害者の働く場をつくり出し、給料をつくり出すことにとどまらず、障害者が中心になって参加、運営を担う社会的企業として組織変革し、障害者の問題をはじめとするソーシャルビジネスを進めていくことでもあることを学びました。

 カレンダーの制作販売は1984年、粉せっけんの販売をきっかけに集まっていた5団体ほどの障害者団体が共同で制作し、おのおのの地域で販売しようというものでした。
 当時の販売方法はそれぞれの団体が支援者や支援団体に協力をお願いし、障害者問題を訴えながら「カンパ商品」として販売するというものでした。
 豊能障害者労働センターにおいてもカレンダーの販売は一年の赤字を補てんし、残ったお金をみんなで年末一時金として分け合うための事業として出発しましたが、それだけではなく、地域でのお店の運営で学んだ労働センターの理念を、ちがう形で実行することでもありました。
 1984年当初は数少ない支援者を通じて販売していましたが、1988年からは今に続く通信販売の最初の商品として、狭い「福祉」の枠にとどまらず、広く一般市民に直接働きかける販売方法へと変わりました。
 そのことが豊能障害者労働センターの活動をより広く伝えることになり、わたしたちの経済活動の在り様や理念を大きく変えることになりました。
 このシリーズの次回はカレンダーの通信販売のはじまりと、その後の足跡について書きたいと思います。

この記事は、わたしが豊能障害者労働センターに在職していた時に学んだ経済活動について考えるものであり、その活動の記述は必ずしも現在の豊能障害者労働センターの活動とはちがうところが多々あると思います。ご容赦ください。

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