さらば 豊能障害者労働センター その1

 能勢に引っ越してきて3年が経ちました。35才からかかわってきた障害者の活動も来年の8月をめどに終わりとする個人的な事情もあり、すばらしい自然が残る能勢での暮らしに残された時間をどう使うか、考えています。そんなわけで、能勢の新学校建設の問題などにも強い関心を持つようになりました。
 能勢の新学校建設の是非を問う住民投票条例に関する町議会が8月15日に開かれることになり、議会の傍聴に参加することにしました。わたしのブログを読んでくださった能勢町民の方から教えていただきました。
 また、先のブログの記事を校正、手直しをして、12人の能勢町議会議員のみなさんと町長に手紙を出しました。わたしの住む地域で心安くしていただいている議員さんからは「手紙を受け取った、精いっぱい発言する」と言ってくださいました。

 わたしは豊能障害者労働センターの活動から、「経済」について教えてもらいました。豊能障害者労働センターとの出会いは1981年、設立の一年前になりますが、1987年に長年勤めていた企業をやめて、40才で専従スタッフになりました。
 「一般企業への就労を拒まれてしまう」重度と言われる障害者の働く場づくりをすすめる豊能障害者労働センターは、他の障害者の活動なら得られる助成金がほぼゼロという状態で、「働く場」とか「所得保障」といいながら、日々の活動を続けることすらむずかしい状態でした。
 志とは別に、障害者スタッフの給料は自立生活を始めるには程遠い5万円(それでも他の障害者のグループよりも5倍から10倍でした)でした。しかしながら、決定的に違うのは共に働く健全者の給料で、他のグループの場合はNPO団体など市民グループの場合でも「福祉職員」として助成金で保障されているのですが、豊能障害者労働センターの場合は当時10万円がやっとでした。

 お金がないということはとてもつらいことのはずなんですが、障害者の場合はたしかに5万円は保障されていましたし、健全者の場合はそれこそ「社会を変えるぞ」という、なんの根拠も展望もない心意気だけで活動していましたから、自活できない部分は家族に依存する形で日々をしのいでいたのでした。親元からの障害者の自立を叫びながら、健全者は親元や連れ合いの経済力に依存するという、笑えない現実が横たわっていた頃でした。
 わたしはその当時は妻の親の会社で働いていてそこそこ給料もよく、それなりにやりがいもありましたし、会社も家族的で社員同士の助け合いの気持ちもあった比較的にいい会社でした。しかしながら、わたしの場合は義父が社長ということもあり、まわりから「将来が保障されている」といわれたり、またどんなに人間的にすばらしいひとであっても、経営者の立場と労働者の立場の間には越えられない溝があり、わたしはどちらの立場も持ちながらどちらの立場にもくみできなくて、仕事の責任を任されるようになればなるほど精神的に苦しく、悲しい思いがつのるようになっていました。

 そんなことで悶々としていたわたしには、豊能障害者労働センターはどんなにみすぼらしくて貧乏でも、とても魅力的なグループでした。なによりも、はじめて出会った障害者スタッフは底抜けに明るく楽観的で、わたしが会社であくせくしながら深い悩みを持て余しているのがとてもおろかに思えてきました。
 ここなら、ほんとうの「ともだち」としてわたしを受け入れてくれるのではないか、そう思うと居てもたってもいられず、ずっと働くはずだった会社を40才の誕生日にやめて、豊能障害者労働センターに飛び込んだのでした。
 当時、豊能障害者労働センターのボランティア仲間の福祉職員に、「豊能障害者労働センターに入るよりも、今の会社にいてたくさん寄付する方が喜ばれますよ」と言われたりして、たしかに当時の給料ならかなりの金額を寄付できたのかもしれないのですが、わたしは豊能障害者労働センターで活動したかったし、また当時のスタッフもわたしを快く仲間として受け入れてくれたのでした。


 それからは、自分の給料をつくりだすだけではなく、とにかく「愛おしいお金」をつくりだすために、会社勤めの時はまったく不向きだと言われた「営業」と「商品の開発」に明け暮れました。実際、豊能障害者労働センターで学んだ最初のひとつが、手に取るお金がなんと愛おしく、切ないものだということでした。
 それまでは不満や不服を言ってみても、給料日にはわたしの会社への貢献度などとは関係がなく、自動的に給料が手に入りました。それに対して豊能障害者労働センターの場合は給料の遅配はあたりまえで、給料カットもたびたびでした。
 ここにはだれが経営者と言うことはなく、お金が入らないのはすべてわたしたち自身のせいなのでした。後に箕面市の市会議員になり、現在はわたしが仕事をさせてもらっている被災障害者支援「ゆめ風基金」で活躍する八幡さんが会計をしていたのですが、「みなさん、今月もとりあえず給料の半分は出ます、残りはその後の収益を見ながら、場合によっては給料カットも覚悟してください」と、いつもにこにこ笑いながら給料日に話していたことを昨日のように思い出します。
 若い時にちょっとかじったマルクス主義の資本の蓄積も労働者の搾取も、ここには当てはまるはずもなかったのでした。そこで仕方がなく、わたしが専従スタッフになった頃にはやめていましたが、毎週日曜日には梅田の地下街にカンパ活動に出てはそのお金で食いつないでいました。実際、粉せっけんを売るだけの収入よりもカンパ活動で得たお金の方が圧倒的に多いと、八幡さんがにこにこ笑いながら誇らしげに言うのでした。

 「それはあんまりでしょう、仮にも障害者労働センターと名乗る以上は事業収入で成り立つように努力しなければ」と、おせっかいを焼いたのがわたしの妻でした。
 1983年に路地を長く入ったところの誰も通るひとがいない事務所の横で豊能障害者労働センターの最初のお店「れんげや」を開きました。毎月一度、「おでんパーティ」を開き、その頃応援してくれていたロックバンド「トキドキクラブ」の人たちが演奏してくれました。その中のひとりが現在も関西で活躍している「ゆめ風基金の歌姫」・加納ひろみさんでした。また、その時にだれも来ない路地裏のお店に毎日おでんを買いに来てくれたのが、今でもずっと豊能障害者労働センターを応援してくれているケーキやさん「グロスオーフェン」のSさんでした。

 しかしながら、ほとんど密接な知り合いだけを相手にする商売が成り立つわけでもなく、時々当時のスタッフのひとりが「手間はかかるし儲からないし、こんなことならお店なんかしなければよかった」と言いました。
 1980年代と言えば高度経済成長からバブルへと向かう時代ですから、世の中は空に札束がまかれるようなにぎやかさでしたが、多くの人々が実はそんなことがなかったように、わたしたちの頭上にも札束は降りては来ませんでした。
 そんな悲惨極まりない経営状態の中からはずしかそうに姿を見せる硬貨の山をみんなで分け合ってその日その日をしのぐ暮らしに飛び込んだわたしは、うまれてはじめてお金の大切さを知りました。札に替えるとみすぼらしい硬貨の山をみんなで数えていると、そのお金を手わたしてくれたひとたちの顔、そしてそのお金もまた誰かから誰かへと手渡されながらそのひとの手に渡り、こうしてわたしたちのもとに手渡されたのだと思うと、ほんとうに「よくここまで来てくれたね」と抱きしめたくなるのでした。
 このブログのタイトル「恋する経済」は、こんな経験から命名したのでした。

 さて、本来は水野和夫やアントニオ・ネグりなど、これからの経済や社会のありようについて考えようと書き始めたのですが、書いているうちにわたしがそんなことに関心をもつことになった豊能障害者労働センターでの体験を話してみたくなりました。
 そこでこの記事のシリーズを「さらば、豊能障害者労働センター」として、わたしの個人的な回想録として続けてみようと思います。今までも何度も書いてきたこととダブルかも知れませんが、このシリーズでは「経済」を含めて障害者問題とはちがう枠組みで書き直そうと思います。
 というのも、わたしは今は豊能障害者労働センターとの運営上のかかわりからは卒業していまして、ただの応援者のひとりとして豊能障害者労働センターを再評価したいと思うのです。

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