さらば豊能障害者労働センター6

1997年、豊能障害者労働センターのカレンダーの販売数は32000部となり、ピークを迎えました。通信販売を始めた1987年が2800部でしたので、基本的な販売手法は変わらないまま10年間で10倍を越える販売数になるとは、正直いうと思いませんでした。
基本的な販売手法とは、機関紙「積木」の読者への働きかけ、全国の学校、保育所へのダイレクトメール、全国の新聞各紙への情報宣伝などの広報活動をベースに、そこから協力者を探し出し、個別にカレンダーを何本か預かってもらい、販売に協力してもらいました。また、障害者団体をはじめいろいろな市民グループに呼びかけ、カレンダー販売の協力会員になっていただき、5000部引き受けてくれるグループから50部のグループまで、一般の卸よりも条件のいい協力会員価格で届け、全国で一斉にこのカレンダーを販売するようにしました。
時代はバブル景気の終焉から1989年の消費税導入とバブル崩壊、その後の失われた20年のはじまりの頃で、奇しくも1997年は消費税が3%から5%へと引き上げられ、一気に景気が悪化し、デフレ経済へと突入していきました。そんな景況悪化に逆行するようにカレンダーの販売が爆発的に増えたことは、わたしたちなりの努力はあったものの、時代の強い意志とたくさんのひとびとの思いに支えられてきたのだと思います。

1982年以来、障害者の給料をつくり出すために地域でのお店の運営やバザーなどをしてもそんなに売り上げがあるわけではなく、実際のところ、障害者の居場所をつくり出す役割しかなかったのが現状でした。まわりを見れば個人商店がしのぎを削り、朝早くから夜遅くまで働いてやっとこさ生活を成り立たせているというのが現状で、そのひとたちから見ればわたしたちのお店の経営は甘ったれたものでしかなかったのでした。
わたしたちといえば、働く場所からも追い出された障害者がお金を得て、自活していくためにはやはり一定の社会保障を求めざるを得ないのですが、実際のところ障害者がほんとうに給料を得ていくための助成金は「働ける」障害者を雇用する一般企業にしか出ず、特別の技術も基礎的な資産もない障害者の場合は、結局自活するには生活保護にたよるしか方法はありませんでした。
障害者に対する福祉施策としてわたしたちのようなグループに助成するために、かろうじて箕面市が単独で補助制度を細々と続けてくれたのが命の綱という状況でしたが、市や社会福祉協議会による結構な予算が組まれている障害者施設と混同され、わたしたちにも大きな助成金が出ているとよく勘違いされたものでした。
ともあれ、それでもなんとかかんとか暮らしていたわたしたちは一般で考えられる生活費とは程遠いお金でくらしていましたので、消費税の導入や引き上げはもろに生活を圧迫しました。また、消費税分を上乗せすると売り上げにひびくため、実質値下げをせざるを得ず、原材料費は上がってしまうのでほんとうに苦しい運営になってしまうのでした。
もちろん、それだけのせいではなく企業が雇わない障害者の給料をつくり出すのですから、よほど一般の企業や商店よりも特別なニーズがある商品や技術がなければなり立たないのは当たり前のことでしたが、そんな技術力も人材も開発費もあるはずはありませんでした。

しかしながらわたしたちには、夢がありました。その夢はわたしたちの夢だけではなく、遠くは長い歴史の底で障害者をはじめとするたくさんのひとたちから手渡された夢、また世界の市民が戦火のさ中に夜空の星に願いを託してきた平和でだれもが幸せでありたいと願う、ささやかながら奪われてきた切ない夢でもありました。
わたしたちもまた、北摂の北の小さな町の片隅から世界のひとびととつながり、地球の裏側で同じ星を見つめる少年少女たちの悲鳴を押し殺した祈りとともに、この星のすべての生きとし生けるものたちが共に生きる未来にむけて、障害者からの肉声を発信していこう。それが豊能障害者労働センターの活動の本来の目的だったのではないか…。
実際のところ、わたしたちに特別なニーズを持った商品があるとすれば、その巨大な夢と、その見果てぬ夢を見つづけるわたしたち自身の心と体しかなかったのでした。
その夢を地域のお店で少しずつ実現してきたことを、全国のまだ出会っていないひとたちにカレンダーの販売という一年分の手紙に託して語りつづけようと思いました。
そんなわたしたちのつたなくも必死の思いに応えてくださったひとたちとの間に実現していったネットワークこそが、10年間で10倍を越える販売数と言う果実を生んだのだと思います。そのネットワークは法人格もなく大きな後ろ盾もないわたしたちとたくさんのひとたちのひとつひとつの心がつながり、どこからもだれからも強制されることない、ゆるやかでやわらかなネットワークなのだと、わたしたちは学びました。

そして、そのネットワークがどんなに過酷なグローバルな新市場主義経済社会であっても、顔が見える経済というか夢みる経済というか、このブログのタイトルにさせてもらっている「恋する経済」をささえる「もうひとつの市場」をつくり出し、その持続可能な市場を豊かにすることで、一般の企業への就労が困難な障害者をはじめとする少なからず存在する就労困難なひとたちの働く場や生活の場をつくり出せるのではないかと、考えるようになりました。
しかしながら、1997年のカレンダー販売数32000部はわたしたちの手に余るほどになり、また世の中も次第にデフレ経済、縮小経済とへ進む中で、わたしたちの大きな夢はともかく、一般的には「寄付型の商品」とみなされたカレンダーの販売はすでに限界に達していました。わたしたちは年に一度のカレンダーの販売だけではなく、「恋する経済」の市場に新しい提案型の商品を開発販売する必要に迫られていました。
そして、翌年の1998年夏、Tシャツの販売をはじめることになります。それはまた次の記事にさせていただきます。

さらば豊能障害者労働センター6” に対して3件のコメントがあります。

  1. TARK5 より:

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    tunehiko様 こんばんは!!

    このシリーズ心待ちにしてました(笑)

    >しかしながらわたしたちには、夢がありました。その夢はわたしたちが夢みるだけの夢だけではなく・・・・・・・・

    夢があれば生きていけるのですネ。

    只々、あなたに脱帽です。

    今日、新歌舞伎座公演DVD届きました。
    楽しみです。今年のでさえ私は
    劇場で観ていないのですから・・・

  2. tunehiko より:

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    TARK5様
    いつもありがとうございます。とくに、わたしのブログのメインテーマですが、あまり人気のないと思われるこの記事のシリーズに関心をもっていただいたことをとてもうれしく思います。
    さて、夢だけではお腹はふくれず、されどもパンのみで生きられない人間のかなしい性(さが)がありますよね。とくに障害者の場合はなぜか心優しく清らかな「夢」だけが語られることが多く、所得補償は本人に対してではなく親がかりが多いのです。
    それとは別に、わたしはキング牧師の「わたしには夢がある」で始まる有名な演説が好きで、それからの借用でよく使わせてもらっています。
    あなたのブログのコメントはあなたのブログに書きます。

  3. TARK5 より:

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    ありがとうございます
    私も今からでも夢を持とうと思います。

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