障害者救援バザー1 豊能障害者労働センターとの出会い

豊能障害者労働センターの障害者救援バザーが、いよいよ今週の土曜日に開かれます。
先週の金曜日、豊能障害者労働センターに行ってみると、バザー用品の回収が毎日50件もあり、その上にこの日の朝、クロネコヤマトが80個のバザー用品を持って来たそうです。大型のトラックで来た運転手が「こんなのはじめて」と苦笑していたようです。そして昼にはゆーパックが20個来ました。宅急便を開けると「こんな形で被災地とつながることができて、うれしい」というメッセージなど、心のこもった手紙が添えられていて、そのことばに励まされながら地震からの2か月を過ごしてきたそうです。

1982年の7月だったと思います。わたしは豊能障害者労働センターを訪ねました。4月に活動をはじめたばかりの豊能障害者労働センターがどんなところなのかと思いながら、大阪府箕面市の阪急桜井駅裏の路地を入って行きました。「センター」とは大違いの古い民家が労働センターの事務所でした。うす暗い部屋の中で小泉祥一さんと梶敏之さんの二人の「脳性まひ」の少年がにっこり笑い、小泉さんが「どうも」と言いながら腕を振り回して歓迎してくれました。
陽も当たらず、透明なはずのガラスはすりガラスのようで、おまけに割れたところをボール紙とガムテープでふさいでも風通しがよく、冬にはビールが凍ってしまうので冷蔵庫に入れるという案配でした。
わたしは35才で、すでに子どもも2人いてそれなりにサラリーマンをしていました。

13才から22才までのわたしの60年代は心も体もほてりつづけ、親兄弟や教師や友だちときずつけあうことでしか「自分が何者なのか」を確認することができませんでした。まだ日本全体が貧乏で、「豊かさ」を求めて大人たちは乗りおくれまいと必死にもがいていて、父親がいないわたしと兄と母の3人もその例外ではありませんでした。
そんな環境がそうさせたのか、生まれながらの気質なのかはわかりませんが、対人恐怖症とどもりにずいぶん悩み、いまでもそれは変わらないままです。
母親がせっかく無理をして工業高校に行かせてくれたのに卒業後就職した建築設計事務所を半年でやめてしまい、ビルの清掃をしながら友だち6人で住み、できるだけお金を使わないで暮らしました。それというのも他の人はともかく、わたしは社会性というものが皆無で、そのまま会社づとめなどせず世間とかかわらずに暮して行きたかったのでした。社会とのかかわりを持とうとしない臆病な少年は意味もわからないのにいきがってサルトルの「存在と無」を読む毎日を過ごしていたのでした。
そんなわたしに、京大の銀ヘル、ノンセクトラジカルと称する青年が「きっときみもいつか立ち上がる時がくるよ」と言ってくれたのがいまでも忘れることができません。
わたしにも青春というものがあったとしたら、せつなくもかなしく、それでいて無条件にわかりあえる友を求めて街をさまよい歩いたあの10年がすべてでした。

1970年、吹き荒れた安保闘争をはじめとする学生運動も、それと響き合うように時代を疾走した「若者文化」も潮が引くように遠くに去り、こどもたちはあっと言う間におとなの常識を身にまとうようになりました。それとともに、わたしも友だちと暮したヒッピーのような暮しから追放され、結婚し子どもも生まれ、会社勤めを始めたのですが、生来の不器用と時代に取り残されたままのうっ屈した心情をどう納得させたらいいのかわからないまま会社と社会に順応しようと必死でした。
それから12年たち、もしかすると会社づとめをずっとつづけることができるかもしれないと思い始めた頃、豊能障害者労働センターと出会ったのでした。
若い時からどの集団にいても座り心地が悪かったわたしは、豊能障害者労働センターがとても気に入ってしまいました。「ここでなら、わたしもなにかできるかもしれない」と思った時、若い時に京大の銀ヘル青年の言葉を思い出していました。

豊能障害者労働センターは一般企業が雇わない障害者の働く場をつくりだし、給料をみんなで分け合っているとてもめずらしいグループです。現在7つの店と箕面市広報紙の翻訳、通信販売と福祉助成金で毎月の給料をつくりだしているのですが、どうしても赤字になるところをバザーの売上で補っていました。
そんな彼女たち彼たちが、バザーの売り上げ全部を被災障害者の救援金として「ゆめ風基金」に送ろうと決めたのは地震から一週間もたっていませんでした。「そんな無謀なことをしないで、せめて半額にしたら」と、よく内情を知るひとたちが言いましたが、「いや、中途半端は気持ちが悪い。全額届ける方が自分たちもすっきりする」と言うのでした。
そのことを機関紙読者に告げ、また「ゆめ風基金」の機関紙で知らせると、全国からバザー用品が送られてくるようになりました。豊能障害者労働センターの強い思いといさぎよさ、そしてシンプルな呼びかけが多くの人の心に届いたのだと思います。
送られてくるバザー用品の箱にこめられたたくさんのひとの心に思いをはせると、胸にぐっとせまるものがあります。
わたしは友人として、自分たちの運営のことをかえりみず、遠く離れていても被災地の障害者とつながりたいと切実に願う豊能障害者労働センターを誇りに思います。

バザーはその名の通り「市場」です。けれども、一般経済でいう「しじょう」ではなく、「いちば」です。そこでは市民が自分の意志で不用品を提供し、それを別の市民が新しく利用する、「助け合う経済」(恋する経済)の中心的な仕組みだと思います。
それぞれちがった時に世に出た物たちが、時と場所をこえて雑然と集うその市場では、それらの物たちがここに来る前にたどってきた無数の時間と、それらの物たちが立ち会ってきた無数の人間の願いと夢、別れと出会いがかくれています。
今週の土曜日、物と物、物とお金、物と人、お金と人、人と人が出会う障害者救援バザーにお越しください。お待ちしています。

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