方言でしか語れない人生、方言でしか歌えない歌

「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」まで、一ヶ月足らずとなりました。
今回、豊能障害者労働センター機関紙「積木」編集部より、イベントに一人でも多くの方にご来場いただくためにと、原稿を依頼されました。わたしの文章でひとりでもイベントに来ようと思って下さる方がいらっしゃるかはまったく自信がありませんが、一生懸命書いてみました。
この文章はこのブログに書いたものを加筆修正したもので、重複する部分があることをお許しください。


方言でしか語れない人生、方言でしか歌えない歌

豊能障害者労働センター30周年記念イベント
「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」に寄せて1

わたしは街の子巷の子
わたしがはじめて聴いたジャズは高校生の時で、大阪の地下街にある「萬字屋古書店」のラジオから流れてきたルイ・アームスロングの「聖者が街にやってくる」でした。
時をたべた紙の匂いが充満する薄暗い空間に、「ヒュー、ヒュー」という雑音とともに風のように流れるどこか悲しさを秘めた陽気な歌声を、いまでもはっきりおぼえています。
ルイ・アームストロングはジャズ発祥の地といわれるニューオリンズの、黒人が多く住む貧しい地域で生まれました。子供の頃にピストルを発砲して入所した少年院で、南北戦争に敗れた南軍の払い下げのコルネットを演奏することになったといいます。
彼がピストルを捨てて楽器を持ち、ニューオリンズの袋小路から演奏をはじめたジャズは時と国境を越え、日本の北大阪の片隅でうごめく少年の心のとびらを叩いたのでした。
子どもの頃、登校拒否児だったわたしは芸能雑誌の「平凡」や「明星」の付録にあった歌謡曲の歌詞で言葉をおぼえました。ラジオから流れる美空ひばり、春日八郎、三橋美智也の歌声と歌詞カードが国語の教科書でした。歌が生まれ、歌が流れる巷の空気や、ひとびとの暮しのにおいとともに届けられる言葉は、学校の教科書にはありませんでした。
街にはまだなまなましい戦争の記憶が残されていました。コンクリートのがれき、破れた鉄条網、進駐軍のジープと米兵がくれたチューインガム、瓦のないバラックのお店、曇った空にぼんやりと浮かんだまま地面に降りて来なかった「福祉」…。真っ黒な土の上で、空だけは等しく時代を青く染め、わたしたちこどもは貧乏ながらも自由と希望と夢に縁取られた「戦後民主主義」の原っぱをかけめぐっていました。
高校生になったわたしはどもりに悩み、学校の先生や親に対して必要以上に反抗的になり、心をちぢませていました。そんなわたしにも数少ない友だちができ、できたての梅田地下街に探検に行き、古本屋にもよく出入りするようになりました。
歌謡曲しか知らなかったわたしには、ジャズはとてもふしぎな音楽でした。言葉の意味もわからず、いままで聴いたこともない音楽なのに、どこか懐かしいのです。その歌の向こう、船底のような古本屋の奥に浮かんだわたしの知らないアメリカの小さな街は、いつのまにかわたしが子どもだった頃に遊んだ路地へとつながっていくのでした。わたしは街の子巷の子、窓に灯りがともる頃…。子どもの頃にラジオから流れてきた美空ひばりの歌声が、アームストロングの歌声と重なりました。

豊能障害者労働センターの30年はもうひとつのジャズだった
4月13日の夜、豊能障害者労働センターの友だちと伊藤君子のライブに行き、彼女の歌を聴いていて、すでに半世紀をはるかに過ぎたジャズとの出会いを思い出しました。
彼女の歌はとても生々しく直接的で、歌が誕生した大地とそこで暮らすひとびとの姿が浮かび上がるようで、わたしはいつのまにかまだ見ぬ懐かしい風景に迷い込んでしまうのでした。そして、わたしはあらためて教えてもらいました。意味はわからなくても、直接聴く人の心とからだを震わせる圧倒的な「音楽」の力が伊藤君子の歌にはあることを、そしてまた、ジャズはそのように生まれた音楽であることを…。
アフリカから奴隷として連れて来られ、母なるアフリカの大地に育まれた文化と言葉をうばわれた黒人たちが、抑圧と差別の中で時の闇をくぐり、支配者であるヨーロッパの文化とたたかい混じり合うことで生まれたジャズ…。ジャズはヨーロッパの標準英語では語れない、アメリカ黒人の方言とともに生まれたのでした。
4歳の時、ラジオから流れる美空ひばりの歌声に魅せられたという伊藤君子のジャズには、楽譜では表現できない日本人の「こぶし」とも「なまり」とも言えるものが、ジャズ発祥の地にあった土着的な匂いと奇妙につながっています。ですから、伊藤君子が津軽弁のジャズを歌うのは奇をてらったものでも企画ものでもなく、ジャズそのものの本質にせまるもので、最初は戸惑うお客さんも、どんどん歌に引き込まれていきます。

1982年、わたしは豊能障害者労働センターと出会いました。箕面市桜井の古い民家に、現代表の小泉祥一さんと梶敏之さんがいました。街は決して彼らをあたたかく迎い入れたわけではありませんでした。普通に学ぶことも普通に働くことも普通に生きることも拒まれた障害者の切ないたたかいの場として、豊能障害者労働センターが設立されたのでした。それから30年、いまでは障害者37人をふくむ61人が活動を続けています。
わたしは今回、豊能障害者労働センターが30周年記念イベントとして、伊奈かっぺいさんと伊藤君子さんに来ていただきたいと願ったわけがわかるような気がします。
方言でしか語れない人生のたからものを笑いの渦の中からそっと差し出してくれる伊奈かっぺいさんと、津軽弁はもとより、いろいろな個性がぶつかり重なりとけあっていくうれしさをジャズにたくして歌ってくれる伊藤君子さん。
「ちがうことこそ力なり」と信じ、共に生きる街を夢見て、みんなでわずかな給料を分け合ってきた30年をふりかえりつつ、豊能障害者労働センターは未来をたがやす希望の歌を必要としているのだと思います。
そして、ささえてくださったみなさんといっしょにその希望の歌を歌いたいと願っています。当日のご来場を、心よりお待ちしています。

方言でしか語れない人生、方言でしか歌えない歌” に対して1件のコメントがあります。

  1. まとめtyaiました【方言でしか語れない人生、方言でしか歌えない歌】

    「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」まで、一ヶ月足らずとなりました。 今回、豊能障害者労働センター機関紙「積木」編集部より、イベントに一人でも多くの方にご来場いただくために...

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です