新藤兼人さんと「午後の遺言状」

映画監督の新藤兼人さんが亡くなられました。
わたしは豊能障害者労働センターに在籍していた1995年の夏、「午後の遺言状」を映画館で観ました。その頃、毎年一度は大きなイベントを開いていて、この映画が豊能障害者労働センターの活動にとって、意味のあることだと思い、すぐに上映会の準備をしたのでした。その頃は今のようにインターネットもまだ進んでいなくて、箕面市の図書館で近代映画協会の連絡先を調べ、電話で交渉したのを思い出します。
その時はまだ映画館での上映が優先されていましたので、結局翌年、1996年4月に上映会を開くことになりました。
いま、「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」に多くの方々来ていただきたいと願い、いろいろな方にご協力をお願いしていますが、この時も機関紙「積木」などで協力をよびかけていました。それでもなかなかチケットの売れ行きが思わしくなかったのですが、96年に入って毎日映画コンクールなどで賞をとり始め、少しずつ上映会のことも知られるようになり、チケットの売れ行きがよくなってきました。
折しも、3月末の日本アカデミー賞でグランプリを獲得したことで、これはお客さんがあふれると思い、午後からの3回上映の予定だったのを急きょ午前にもう一回増やしました。
これで大丈夫だろうと思ったのですが、いざ当日になると500人の会場に午前の部で800人ほどのお客さんが来場され、入りきれなくなってしまいました。
高齢の方がほとんどでしたが、会場に入れない大勢のお客さんに囲まれ、怒られてしまいました。そんな状況ですから4回上映のどの時間もぎゅうぎゅうの満席で、映画が終わって出て来られたお客さんもすごい形相で、とにかく事故がなく終わったからよかったものの、いま思い出しても背筋が寒くなります。

介護保険制度の良しあしは別にして、まだ高齢者福祉制度が追いつかなかった頃、障害者問題も高齢者問題も本人の人権とは程遠く、まわりの家族の介護の問題としてとらえられることが多かった時代でした。(今も実はほとんど変わっていないと思います)。
この映画では老人たちがよくも悪くも自分の人生は自分で決めたいと思う尊厳をもちつづけていて、老いや障害は「福祉」の問題ではなく、人生の不思議さや夢や裏切りや切ない希望や語られなかった青春や隣り合わせの死と共にあります。
去りゆく名優たちの遺言をフイルムに焼き付けた普及の名作「午後の遺言状」。この映画を上映できたことを、当日の不手際を後悔しつつ、わたしにとっても豊能障害者労働センターにとっても誇りに思います。
新藤兼人さんのご冥福をお祈りします。

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     映画監督の新藤兼人さんが亡くなられました。 わたしは豊能障害者労働センターに在籍していた1995年の夏、「午後の遺言状」を映画館で観ました。その頃、毎年一度は大きなイ...

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