人生を変えてしまった一本のドラマがある 追悼山田太一さん

「ひとに迷惑をかけるなという、この社会がいちばん疑わないルールが君たちを縛っている。ひとに迷惑をかけていいじゃないか。君たちが自由に街に出られないルールの方がおかしいんだ。迷惑をかけることを恐れるな」。(ドラマ「車輪の一歩」)

 山田太一さんが11月29日、亡くなられたことを知りました。
 わたしの心の中には脚本家としての山田太一さんと、豊能障害者労働センター在職時の恩人としての山田太一さんがいます。
 わたしが山田太一さんのお名前を知ったのは、高校の頃からファンだった寺山修司を通してでした。1970年代は、山田太一さんのドラマを見て生きてきたと言っても過言ではありません。そしてまた、数々の名作の中で、NHKドラマ「男たちの旅路」シリーズの「シルバーシート」と「車輪の一歩」を観て、わたしはその後箕面の障害者と出会い、障害者の運動に参加することができました。
 テレビドラマを通じてわたしの人生を大きく変えてしまった山田太一さんでしたが、それに加えて、箕面のみならず障害者の運動をけん引した一人で、豊能障害者労働センターの代表でもあった河野秀忠さんの尽力で1992年と2001年、山田太一さんを箕面にお招きし、旧箕面市民会館で講演していただいたこともわたしたちの活動の勇気となり、今も誇りとする出来事でした。
 心からご冥福をお祈りしながら、豊能障害者労働センター在職時、2001年に講演会の案内で豊能障害者労働センター機関紙「積木」に書いた文章を掲載させていただき、追悼の言葉とします。
 山田太一さん、ほんとうにありがとうございました。

左から 山田太一さん 河野秀忠さん 牧口一二さん 2001年「山田太一トークイベント」 旧箕面市民会館

「男たちの旅路」シリーズの「シルバーシート」、「車輪の一歩」を観なかったら、まったくちがう人生になっただろう

 人生を変えてしまったテレビドラマがあった。
 山田太一講演会に寄せて 豊能障害者労働センター機関紙「積木」2001年4月

 ぼくは何回も引っ越した。摂津市千里丘の家を高校卒業後すぐに出て大阪の岸里に住んだのを皮切りに、吹田、蛍池、服部、川西、豊中と移り、箕面に引っ越してきたのだった。
 1977年12月3日、土曜日。その日は川西の家から豊中に引っ越すため、ぼくは朝から必死で準備をしていた。子どもはまだ幼なかった。
 夜の9時すぎに、電話のベルが鳴った。友人の加門君だった。「細谷。引越しの準備大変やろ。明日行くわな。『男たちの旅路』見てへんやろ」。
 その夜は山田太一の「男たちの旅路」第3シリーズの最終回「別離」を放送していたが、引越しの前の日で見れるはずがなかった。
 「こうなってな、あーなってな、桃井かおりが死んでしまうねん」と、筋書きを電話で話す彼の親切はありがたいが、「俺は見たでー」という優越感のようなものを感じ、「こんちくしょう」と思ったものだった。
 「岸辺のアルバム」、「高原へいらっしゃい」、「さくらの唄」…。この頃は各局でよく山田太一のドラマがあり、ぼくたちは「山田太一のドラマを見たか」が合言葉になっていた。

寺山修司から山田太一へ 青春が終わり、人生の旅路へと歩き始める勇気をくれたひと

 ぼくが高校の時からファンだった寺山修司の本の中に、大学時代の山田太一との往復書簡があった。その時はじめて山田太一の名前を知った。
 そして1972年、NHKの朝のドラマ「藍より青く」が、はじめて見た山田太一のドラマだった。それから「脚本・山田太一」と書いていないかと、新聞のテレビ欄を見るようになった。
 19才から23才まで、最初に就職した建築設計事務所を半年でやめてビルの清掃を3年、その後ぶらぶらしていた時代にもっとも気になる人間は寺山修司だった。
 どもり、「私生児」、ヒッピー、孤独…。社会や他人と関係を持つことが怖かったぼくに、寺山修司はたった3分の歌謡曲や雑多な巷から思想を語り、自分らしく生きる勇気を教えてくれた。
 そして70年、世の中の喧騒がおさまるのと同時に、ぼくの青春は終わる。それから会社勤めをし、結婚し、子どもが生まれ、ぼくにも家族ができていく年月に、もっとも気になる人間となったのが山田太一だった。

 山田太一が描く日本の高度成長期の家族は、決して幸せではなかった。というより、期待される幸せな家族像が、山田太一のドラマにはなかった。
 「岸辺のアルバム」、「早春スケッチブック」に代表されるように、ドラマの最初で幸せな家族像はすぐに崩壊してしまう。「わかってくれる」と思い込むことが家族のひとりひとりを傷付けていたことを知らされ、自分自身も傷ついてしまう。
 だが不思議なことに、「決してわかりあえない」ことを知った時、家族や友人や自分のまわりのひとたちをいとおしく思う。
 そして、もう一度いっしょうけんめい生きよう、いっしょうけんめいつきあおうと静かな決意をする。登場人物たちの後姿はドラマが終わった後、いつのまにか見ているぼく自身の後姿になっていた。

ドラマ「車輪の一歩」は豊能障害者労働センターとの出会いを用意してくれた

 ひとはいつから自分がおとなになったと感じるのだろう。波がきらきらした夢を連れ去った後、砂浜に取り残されるものは思い出という貝殻だけなのだろうか。
 いや決してそうではないのだ。若さというスピードが置き忘れた人生の意味をひとつひとつ辛抱強く拾いながらもう一度歩きはじめる時、ひとはおとなになっていくのだと思う。
 つまらないと思ってしまいがちな平凡な日常生活の中で「自分らしさ」を再構築していくドラマを、ぼくは必要としていた。山田太一のドラマは、おとなになっていくぼく自身のドラマでもあった。
 そしてぼくにとって、山田太一のドラマはフィクションで終わらなかった。「男たちの旅路」シリーズの「シルバーシート」、「車輪の一歩」は、その後僕自身が会社勤めをやめて、豊能障害者労働センターの専従スタッフになることを予言していたのだった。