エレーン 生きていていいですかと誰も問いたい。山本たろうさんの都知事選

都知事選は小池百合子さんの圧倒的な得票数による再選という結果になりました。もちろん、誰もがこの結果を予想していたことかもしれないのですが、それでもわたしは、れいわ新選組と山本太郎さんへの「もしかして」という淡い期待に胸を膨らませていたことを告白しなければなりません。もちろん、政界の女傑といっていい小池さんにかなうはずがないのはわかっていましたし、わたしの「もしや」は山本太郎さんが小池さんをしのぐと思っていたわけではありません。
新型コロナウイルス感染予防の対策では、小池都知事は安倍政権と同じく東京オリンピックの開催が来年になった途端に「ロックダウン」、「都市閉鎖」などのメッセージとともにマスコミで強い政治家を自演し、大阪の吉村知事といっしょに安倍政権に「緊急事態宣言」を催促するなど、安倍政権の失策を逆手にとった政治的パフォーマンスを発揮しました。それも、地方都市・大阪の吉村知事に花を持たせながら、国家を脅かせる権力を行使できる強い政治家として、初めての女性首相をめざす彼女にはおあつらえ向きの状況でした。
欲望の都市・東京は、アメリカに依存し東アジアの盟主でありつづけようとする国民国家・日本を置き去りにして、世界市場経済のセンターとしての居場所を確保しようとしていると思います。結局のところ、都市型の経済成長幻想を地方の町や村に押し付け、自らはコロナ後と称する世界でより早くより強くより大きな富の強奪へと突き進むクールなメガポリス・東京の姿は変わらないのかもしれません。
大阪に住むわたしは橋下徹さんの時代からすでに12年も維新政治の元で暮らしてきましたが、住民の公務員や教師へのねたみを利用した身を切る改革と称して公務員と教師とその労働組合をたたき、公的な事業を民間委託し、病院を減らし保健所をへらし、医療費と社会保障費を削減してきたことは成果といえるのでしょうか。これは何も維新の政治だけのせいではなく、日本社会全体がわたしたちに自己責任を迫り、税金を納める人だけを市民とし、国際競争に打ち勝つ能力を身に着けるだけの教育を子どもたちに押し付けてきました。
維新が念願とする都構想とは大阪のためではなく、東京中心の都市型の社会、格差をより進める新自由主義の暴走を大阪にも持ち込むことなのでしょう。昨年の維新の躍進を象徴する「成長を止めるな」というキャッチフレーズは、大阪独自の豊かさではなく、東京に負けない第2のビジネスセンターとしてインバウンドに助けられながらバブルの時の経済成長の夢を見続けることにほかなりません。
そして、世界全体が新自由主義とグローバリズムが格差を産みだし、富めるものだけの豊かさが世界中に途方もない貧困と環境破壊を広げることに数多くの人々が気づき始めたところに、今回のコロナショックが襲い掛かりました。
今もまだおびただしい命が奪われている中で、こんなに理不尽な犠牲を強いられてもまだ、わたしたちは暴走する新自由主義にストップをかけられないのでしょうか。
山本たろうさんが周囲にあったであろう慎重論をおしのけて都知事選に出馬をした結果を見て、さまざまな批判があるのを承知していますが、わたしは彼とその仲間たちが甘ったるい理想主義と言われても扇情的といわれても、組織的な未熟さを指摘されても、都知事選に出馬せざるを得なかったのだと思っています。彼自身が出馬の記者会見で語ったように、政治的な戦略や空気を読む賢さから言えば都知事選では宇都宮健児さんの応援に力をつくし、解散風が吹き始めた衆議院選挙をターゲットにした準備を整える方がスマートでいいに決まっていたとしても、いま目の前で倒れているひと、倒れようとしているひとたちの前を通り過ぎることができなかったのだと思うのです。政治の世界にそんな青臭い正義感が通用しないといわれても、独善的かつ一歩間違えれば偽善的と言われても、彼とその仲間たちは本気でそう思ったにちがいないのです。
というのも、彼女彼たちはそんな青臭くいつまでも心を痛めたり憤りを感じたりしてしまう青春や愛や純情など、およそ政治家には無用と一蹴されてしまってきたことが、今のひらがなで語れない不毛な政治とあくなき党利党略をくりかすえ政治不信を生み出してきたことを、そして政治屋という専門家によって当事者の生々しい肉声の叫びが消し去られてきたことを知っているからでした。
それがゆえに、まずは障害を持つというだけで理不尽な仕打ちを受けてきた木村さんと船後さんをまっさきに国会におくりこんだのだと思います。
この記事を書いている途中で、大西つねきさんのユーチューブで「命の選別」発言が飛び出し、非難が殺到し、本人の謝罪と動画の削除、対応のまずさから山本たろうさんとれいわ新選組へのここぞとばかりに批判が集中しています。わたしは大西さんの発言の部分的な切り取りが問題で、全体の趣旨は違うという意見にはくみしません。おそらくどこを切ってもつないでも、発言の趣旨は変わらず、絶対に正当化されるはずもないと思います。
それは木村議員と船後議員の人間としての存在を否定し、抹殺することにほかなりません。
ただ、わたしが悔しく思ってきたこととして、暗に役立たずと差別丸出しの言葉を投げつける意見のみならず、障害者議員は存在しているだけで意義があると主張する方にも、彼女彼の人権にたいしても議員活動にたいしてもとても失礼で、差別的だと思うのです。
人間は生きているだけで十分であるはずはなく、他者からそう見えるひともまた、一生懸命生きているのだと思うのです。かつて青い芝の障害者たちが働けないことを働かないと言い換え、健全者の都合でつくられた労働のシステムを拒否し、「生きているだけで労働だ」と生存権を主張しましたが、その主張と今の時代によく言われる「生きているだけで価値がある」という人権感覚とはずいぶん違うのではないかと思っています。
音喜多議員が、船後さんがコロナ感染症の影響で国会を休んだことに「議員報酬を返せ」と暴言を吐いたり、松井一郎大阪市長が「介護費用を自分で出せ」と平然と言ってのけるのはある意味正直に世間の差別感を表しているのかも知れませんが、そもそも国会はこうあるべき論にとらわれ、新しい現実と未来に心新たに向き合えば、彼女彼らが「存在しているだけ」ではなく、まったく新しい提案を国会にしていることに気付かないのです。気付かないから、ほんとうの議論にならないのです。それにしてもあからさまな差別発言をくりかえすのが維新の議員であることは、維新という政党が障害者に対して根強い差別感を持っていると思わずにはいられません。
大西つねきさんの論旨はある意味とても明快で、医療のキャパシティーがない時、年寄りはもう十分に生きたのだから若い人の命を救うという、究極の政治判断があるということですが、切り捨てられる命への人権侵害はもちろんのこと、そんな究極の選択に医療従事者を追い込まないことこそが政治のもっとも大切な責務だとわたしは思います。今回も保健所や病院を減らし、公共的な医療体制を民間委託することで成果としてきたコスト削減によって救えなかった尊い命の重さを身を持って主張できるのが木村さんと船後さんであることは、れいわ新選組のほこりだと思います。
れいわ新選組は大西さんを除籍にするそうですが、新しい政治集団である以上、もし完璧に大西さんが差別発言の撤回とその発言が出る健全者社会の差別の構造にむき合い、大西さんが望むならば、わたしはれいわ新選組が既成の政党ではなく新しい政治集団としての前向きの決断があってもいいのではないかと思います。
一般的に順風満帆と思われたれいわ新選組がはじめて迎えた難局ではありますが、わたしは新自由主義の草刈り場から取り残されたたくさんのひとたち、いままで政治に見放されてきたひとたちの最後の拠り所として、れいわ新選組はわたしにとってもっとも大切な政治集団であることに変わりはなく、いままで政治的な行動とかけ離れたところで生きてきたわたしが苦手としてきた政治と向き合わなければと教えてくれた山本たろうさんとその仲間たちに感謝の言葉しかありません。

今夜雨は冷たい
行く先もなしにお前がいつまでも
灯りの暖かに点ったにぎやかな窓を
ひとつずつのぞいている
今夜雨は冷たい
エレーン 生きていていいですかと誰も問いたい
エレーン その答えを誰もが知っているから誰も問えない
(中島みゆき「エレーン」)

『エレーン』 中島みゆきカバー First Step

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