山城博明さんの写真に定着された「立ち止まる一瞬」が語る沖縄の真実

3月26日、27日と能勢町淨るりシアター小ホールで開いた、憲法カフエ能勢主催の城博明写真展は、2日間で約40人の来場をいただき無事終わりました。
この写真展は2月の第6回憲法カフエ能勢「辺野古と民主主義」と同時に企画したもので、場所の都合で2月が無理で3月末に開催することになったものです。
結果的には2月に開催するのは準備不足で、3月でよかったと思っています。
ほんとうは、せめて3日間開きたいと思ったのですが、会場費が予算的に難しく、また交通アクセスが便利ではない所なので、2日間だけの開催となったものです。
実際は残念ながら能勢町のひとは少なく、憲法カフエ能勢の主宰者のTさんの人脈で遠くは京都や篠山から駆けつけてくださったおかげで、なんとか形になったというのが実情でした。わたしたちの発信力がまだまだ弱いことを痛感します。
それでも、少ないながらも能勢町内の新聞折り込みをごらんになった方も何人か来場してくださり、その中にはわたしの家の近所の方が思いかけず来てくださったことなど、うれしいこともありました。またその方々といろいろなお話もでき、憲法カフェ能勢にも参加してくださることになりました。

この写真展は山城博明さんの「抗う島のシュプレヒコール」(岩波書店)の出版を記念して、沖縄県の不屈館が本の中から選りすぐりの写真約50点を制作したものです。沖縄県での写真展以後、関西では初めての写真展となりました。
ここ10日間ほど写真展の準備のため、送られてきた写真のひとつひとつをきれいにして(状態が悪く、妻が手伝ってくれて除光液でテープ跡や汚れをふき取ってくれたのですが、そのために少し中毒症状を起こしてお医者さんに行くはめになりました)、黒の台紙に張り、その下に本に記載されているそれぞれの写真のキャプションと説明文を作成する作業をしている間、ひとつひとつの写真に残された沖縄の過酷な歴史が強烈に押し寄せてくるようで、沖縄の歴史を上すべりでしか知らなかった自分が恥ずかしくなりました。この50枚の写真に定着された沖縄の歴史は、本土の記述された歴史では語られることのない、日本のほんとうの歴史がつづられているのだと思いました。
先の戦争で唯一本土決戦の場となった沖縄のそこかしこのガマで今も取り残され、帰るべき家に帰れない名もない遺骨、それを今もボランティアで収集しているひと。
1995年に3人のアメリカ兵が12歳の女子小学生を拉致した上、集団強姦した事件で、実行犯の3人の身柄がひき渡されなかったこと。そんな事件が数多く起こり、つい先日もまたしても事件が起きたこと。
2004年8月13日、アメリカ軍普天間基地所属の大型輸送ヘリコプターが訓練中にコントロールを失い、沖縄国際大学1号館北側に接触、墜落、炎上し、幸い民間人に負傷者が出なかったものの、事故直後、消火作業が終わった後にアメリカ軍が現場を封鎖し、事故を起こした機体を搬出するまで日本の警察・消防・行政・大学関係者が現場に一切立ち入れなかったこと。数え上げればきりがない数々の事件が沖縄の人々の心をふみにじってきたことが、一枚一枚の写真がまるで肉声で語るようでした。
戦後70年どころか、戦前戦中戦後日米両政府の強権によって、沖縄の人々の人権と暮らしが理不尽に蹂躙されつづけてきたとてつもなく大きく深い悲しみと憤り、苦難とたたかいの歴史が、その場に立会えなかった、立会おうとしなかったわたしの胸に深く突き刺さりました。
写真展は、出版された山城博明さんの「抗う島のシュプレヒコール」(岩波書店)に記述されている年代別にそれぞれの写真を並べてみました。そうすると、一枚一枚の写真の知られざる現実の積み重ねから、山城博明という報道カメラマンが写し取ってきた沖縄から見た辺野古の姿もまたくっきりとあぶりだされてきます。
極端なことを言えば、本土にいるわたしたちの民主主義が、沖縄のひとびとの犠牲の上に成り立ってきたことも痛感せざるをえません。さらには在日外国人や障害者をはじめとする社会的少数者の犠牲の上にも…。
そのことが伝わるからでしょうか、来場された方々の滞留時間が長いと言うか、とても丁寧に写真をみつめ、けっして少なくない量の説明文を丹念に読んでくださいました。少ない経験ですが、写真展でこんなに熱心にキャプションや説明文を読んでくださったのはとてもめずらしいと思います。
わたしは去年の夏まで自然災害による被災障害者の支援活動をする団体で働いていて、東日本大震災を中心に写真パネルを製作しました。当初は写真の一枚一枚に説明文をつくりましたが、あまり読んではもらえなかったように思います。
説明文がよくなかったのかもしれませんが、今回の写真展では山城博明さんの写真に定着された沖縄の「立ち止まる一瞬」に引き込まれ、「この写真は何?」と説明文を一生懸命に読んでくださったのだと思っています。
回収率も高かったアンケートを読んでそのことを実感しながら、街中ではなく里山の能勢の地で、こんな貴重な写真展を開くことができてほんとうによかったと思っています。

前日の展示準備は、最初は3人でどうなることかと思っていたら、能勢農場のわかいひとたち10人ほどが駆け付けてくれて、強力な助っ人のおかげでぎりぎり展示準備がすべて終わり、ほんとうに助かりました。
わたしは1980年代はじめに能勢農場のひとたちと知り合い、当時のひとたちと一緒に行動したりしていましたが、その後豊能障害者労働センターの設立とともに障害者の活動へと移りました。時が過ぎ移り住んだ能勢でまた、能勢農場や能勢の産直センターの若い人たちと出会い、不思議な巡り合わせに心なしか興奮しています。
わたしが能勢農場と出会った時から35年以上もたちましたが、今の能勢農場の若い人たちの率直で凛々しく純情で屈託のない笑顔を見ていると、とてもじゃないが明るいと言えない未来もそれほど捨てたものでもなく、小さなろうそくの火かもしれないけれど、わたしの心にもほのぼのとした温かいものが灯ったような気がします。

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