伊藤君子と美空ひばりと島津亜矢

村上春樹が、美空ひばりについておもしろいエピソードを書いています。
「以前、アメリカ人の家で美空ひばりの歌うジャズ・スタンダード曲集を、ブラインドフォールド(誰が歌っているかを知らされない状態)で聴かされたことがあった。『誰だかわからないけど、なかなか腰の据わったうまい歌手だな』とは思ったのだが、何曲か聴いていると、その『隠れこぶし』がだんだん耳についてきて、最終的にはやはりいくぶん辟易させられることになった。」(村上春樹・著「意味がなければスイングはない」)
村上春樹はクラシックからジャズ、ロックまで幅広い音楽のレンジを持っていますが、どうしても受け入れられないジャンルが演歌であることも良く知られています。ですから、

美空ひばりについて書いたこのエピソードに、わたしはとても興味を持ったのでした。
もっともわたしは彼がいう「隠れこぶし」こそが、美空ひばりの真骨頂だと思っています。人にはそれぞれ好みがあるのは仕方のないことですが、村上春樹はおそらくその時はじめて美空ひばりのジャズ・スタンダードを聴き、彼なりに美空ひばりの偉大さを証明してくれたのだとわたしは思います。彼が辟易したと言う「隠れこぶし」こそが美空ひばりたるゆえんなのですから。
美空ひばりが敗戦後の焼土に生まれた天才歌手としていつも大衆とともに生き、瓦礫から民衆とともに時代の希望を耕しただけでなく、世界を圧倒する歌手であったことはたくさんの人々が証言しています。
竹中労の仲介でハリー・ベラフォンテを家に招いた美空ひばりが、とっておきのかくし芸として三門博の浪曲「歌入り観音経」を伴奏なしで浪々と切々と歌いました。「遠くチラチラ灯りがみえる、あれは言問こちらといえば・・・」。ベラフォンテほどの歌い手が圧倒されて声もなく、涙ぐんで聞き呆けていたそうです。「あなたも何か?」とうながされると、首をふってこう言ったそうです。「今夜はうたえません、この唄を聴いたあとでは」。そして、コンサートでレパートリーに組んでいた日本の歌を「さくらさくら」以外すべてを取りやめたといいます。「彼女の歌を聴いたので、私はニッポンの聴衆の前でこの国の歌をうたうことがとても恥ずかしくなった。」(竹中労・著「美空ひばり」)

前置きが長くなってしまいまいました。実は今回書こうとしているのは13日の夜、ジャズシンガー・伊藤君子のライブにはじめて行った時の感動と衝撃を伝えたいと思ったからです。
ジャズといえば1960年代までは暗くてタバコのけむりでむせかえるジャズ喫茶を思い出しますが、最近は都会的でおしゃれなライブハウスやラウンジで演奏されることが多くなりました。今回も大阪梅田の老舗「ロイヤルホース」でのライブでした。
実は6月24日に豊能障害者労働センターが30周年を記念して、伊那かっぺいと伊藤君子のライブをすることになり、その縁で豊能障害者労働センターのスタッフのひとたちと行くことになったのでした。

さて、伊藤君子が歌いはじめると、わたしはなによりも彼女の「歌う英語」にびっくりしたのでした。わたしはこの年になるまでとうとう英語はわからないままで、ビートルズやボブ・ディランは大好きですが、歌っている言葉の意味はほとんどわかりません。
ですからその夜彼女が歌ったジャズのスタンダードの歌詞も当然のことながらわかりませんでした。それなのに、今まで聴いてきた英語の歌とはちがう、とても生々しく直接的で、手で触れる言葉と表現したらいいのか、はじめてほんとうの英語の歌を聴いたような新鮮な感覚にとらわれたのでした。
それはどうも言葉としての英語、単なる歌詞の問題や英語の発声の問題ではなく、伊藤君子の「歌う英語」にはその意味などわからなくてもその歌が生まれた場所の風景と、そこで暮らしているはずのひとびとの姿が乗り移ったように浮かび上がってくることから来るようです。伊藤君子はアメリカでも高く評価される歌手で、歌のうまさも半端ではありません。しかしながら、彼女の歌にはそれだけではないどこかごつごつとした手ざわり、暮らしの匂いがあふれているのでした。
そして、わたしは教えてもらいました。意味はまったくといってわからなくても、直接聴く人の心とからだを震わせる圧倒的な「音楽」の力が伊藤君子の歌にはあることを、そしてまた、ジャズはそのように生まれた音楽であることを…。

アフリカから奴隷として連れて来られたアメリカ大陸で、抑圧と差別の中で時の闇をくぐり、支配者としてのヨーロッパの文化とたたかいながら混じり合うことで生まれたといわれるブルーズやジャズ…。まさしく標準語では語れない音楽、方言でしか歌えない音楽として、ジャズは生まれたのでしょう。ジャズのジャズたるゆえんとしてのアドリブもまた、音楽を必要とする一点でのみ同じ場所に立ち同じ空気を吸いながら、わかってしまった歴史から解放されて、どこに行くのかわからない明日の希望へと手をつないで行く冒険に他なりません。
伊藤君子の歌が連れて来てくれたジャズの荒野に立った時、すでに津軽弁のジャズは奇をてらったものでも企画ものでもなく、ジャズそのものの本質にせまるものであることを痛感しました。そして、小豆島出身の伊藤君子の歌にある方言としてのジャズのルーツを見抜き、津軽弁でジャズを歌うことをすすめた伊奈かっぺいという人はさすがだと思いました。

濃密でセクシーな空気をただよわせ、方言でしか歌えない英語と津軽弁のジャズを聴きながら、歌詞の意味からは解放され、わたしはわたしなりの風景を伊藤君子の歌のむこうに観ていました。
それは子どもの頃の風景。まだ戦争の爪痕が残されていたコンクリートのがれき、破れた鉄条網、瓦のないバラックのお店とその奥の六畳一間の家、時々やってきた進駐軍のジープと米兵がくれたチューインガム、道路に落ちた馬糞をコッペパンとまちがえたおじさん、原っぱにころがるへしゃげたやかん、長屋じゅうが七輪を路地に置いて一斉にいわしを焼くもくもくとしたけむり、わたしが最初に憶えた英語の歌「きよしこの夜」、夏の夜のお店の縁台で将棋を指していたおじさんたち、そのおじさんたちを迎えにきたシミーズ姿のおばさんたち、曇った空にぼんやりと浮かんだままとうとう地面に降りて来なかった「福祉」…。
真っ黒な土の上で、まだ多くの家が貧しいことで連帯できた時代、空だけは等しく時代を青く染め、わたしたちこどもは貧乏ながらもあてのない自由と希望と夢と、それから後にやって来るはずの絶望に縁取られた「戦後民主主義」の原っぱをかけめぐっていたのでした。
そのころ、ジャズはまだわたしの心には届いていませんでしたが、しばらくして日活映画の石原裕次郎、小林旭のすぐ後ろ、ラジオから流れる広沢虎造の浪曲と三橋美智也と株式市況の彼方から、ジャズはルイ・アームストロングのかすれた声とともにやってきたのでした。

4歳の時、ラジオから流れる美空ひばりの歌声に魅せられ、歌手を目指すようになったという伊藤君子のジャズには、どこか美空ひばりとつながるところがあると思いました。もちろん、伊藤君子の場合は演歌でいうこぶしではありませんが、それこそ「なまり」と言ってもいいかもしれない、ジャズ発祥の地にあった土着的な匂いがあり、その匂いが見知らぬ風景をなつかしい風景に変えてくれるのでした。これはわたしのまったく個人的な好みの問題ですが、わたしが好きな歌手は結局のところ、その人の後ろに風景が見えるか見えないかにかかっているようです。
話を最初に戻しますと、美空ひばりの「隠れこぶし」こそが、美空ひばりの風景なのだと思います。そしていま、その風景を見せてくれる数少ない歌手のひとりが島津亜矢なのです。デビュー以来、彼女が表面的なこぶしやうなりをどんどんはぎ落してきたその後に、それでも残る「隠れこぶし」こそが島津亜矢を島津亜矢たらしめるほんとうの個性であり、そこを通りすぎた歌手だけが描くことができるその風景を見せてくれるのです。(わたしは同年代の方々と逆に、島津亜矢から美空ひばりのほんとうの素晴らしさを教えてもらったようです。)
わたしにとって美空ひばりと伊藤君子と島津亜矢は一本の線でつながっていると思えて仕方ないのです。

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  1. まとめteみた.【伊藤君子と美空ひばりと島津亜矢】

    村上春樹が、美空ひばりについておもしろいエピソードを書いています。「以前、アメリカ人の家で美空ひばりの歌うジャズ・スタンダード曲集を、ブラインドフォールド(誰が歌ってい...

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