島津亜矢 新歌舞伎座公演「お紋の風」

いよいよ今日、4日から大阪新歌舞伎座で島津亜矢特別公演が始まります。4日の初日から23日の千秋楽までの長丁場で、わたしは箕面の友人2人と千穐楽に行くのを楽しみにしています。
第一部は山本周五郎の「野分」を原作に「お紋の風」、2部はオンステージで紅白歌合戦の歌唱曲「帰らんちゃよか」など、一段と充実したステージをくりひろげることでしょう。
演歌歌手を座長にした特別公演は少なくなったように思うのですが、失礼ながらプロの役者でまわりを固めてもよほどの力量がないと芝居になりにくく、本業のステージを盛り上げるための前座の域を出ず、それではお客さんを満足させられなくなったからではないかと思います。かつては美空ひばりなど、役者としても素晴らしい歌手がいて、そこから座長公演という形式が生まれたのではないかと思いますが、最近はなかなか役者としてプロと太刀打ちできる歌い手さんが少なくなってきたのではないでしょうか。
そして本業の歌手としても、20日ほどの長い期間、新歌舞伎座や明治座のステージをひとりでやり遂げることもかなり大変なことでもあります。
その中で、島津亜矢は2012年の名古屋公演を皮切りに大阪の新歌舞伎座、東京の明治座、名古屋の中日劇場と毎年開き、その集客力から今では劇場も一緒に彼女の公演をつくるようになってきました。中でも1時間という短い時間で芝居をつくれる役者としての力量は、共演する役者さんたちがリップサービスだけではない高い評価をしています。
とくにここ2年ばかり、山本周五郎の「おたふく物語」を原作にした「おしずの恋」では、藤村志保、森光子、池内順子、十朱幸代、今年の9月には明治座で藤山直美など、歴代の大女優が演じてきた「おしず」を演じ、演歌歌手の手習いなどとはほど遠い性根の入れ方と日頃の精進からくる演技力で「役者開眼」といっていいめざましい進化を遂げています。
もちろん、本業の歌は別にして、年に何日かだけの座長公演の役者でしかない島津亜矢が彼女たちに太刀打ちできるはずもありませんが、それでも島津亜矢がただひとつ、彼女たちにぜったいに負けないものがあるとしたら、市井に生きる庶民への暖かいまなざしと深い愛を生涯にわたって描き続けた山本周五郎の小説に登場する女性の「いじらしさ」にあり、ベテラン女優たちの熟した演技力ではもしかするとたどり着けないものを持っていると思うのはファンのひいき目でしょうか。実際、山本周五郎の小説のどれを読んでも、登場人物の女性のいじらしさ、けなげさとともに、どんなに貧乏であっても自分の生き方をしっかり持ち、助け合いながら生きていく芯のつよさは島津亜矢そのものです。
演技力で到達するのではなく、もともと備わったその「いじらしさ」から芝居の中の「おしず」を演じ始める島津亜矢は、いい意味でのアマチュアリスムというか、「ピュアな心情」で芝居空間を染めていく役者としての力量を開花させたといっても過言ではないでしょう。

今のベストセラー作家には到底及ばない数の長編、短編小説を書き続け、舞台、映画、テレビドラマの名作を生んだ山本周五郎の時代小説の特徴はフィクションにとどまらず、戦後すぐから1960年代までの政治をはじめとする時代の空気をするどくとらえたドキュメンタリーでもあるところだと思います。戦前から一貫して、貧乏長屋で助け合って生きる人々の人情と切ない希望を丁寧に描きながら、彼女たち彼たちにふりかかる悲運や絶望の裏にある理不尽な権力をあぶりだす彼の小説はひとびとの心情に寄り添い、圧倒的な支持を得ました。
「樅(もみ)ノ木は残った」(1958)、「赤ひげ診療譚(たん)」(1958)、「おさん」(1961)、「青べか物語」(1960)、「さぶ」や珠玉の短編小説の登場人物のせりふそのままに、彼の生き方も徹底した反権力反権威の姿勢を一生崩しませんでした。あらゆる文学賞を拒否し、純文学や大衆文学などの規制のジャンル分けを排し、「小説にはいい小説と悪い小説とがあるだけだ」と生涯ただ書き続け、市井の庶民の側にたち、既成の権威に敢然と抵抗しつづけた作家でした。
1970年代からの高度経済成長、日本社会全体が欲望のるつぼと化した時代には、山本周五郎の登場人物の正直で大きな野心を持たず、家族や隣人と助け合う長屋文化の生き方は軽んじられてきました。「一億総中流」という掛け声高く、長屋から団地、団地から一戸建ちへと家族の欲望も膨れ上がり、大衆から個衆、個衆から孤衆へと、ひとびとの人間関係も地域よりは職域へと移っていった暴力的ともいえる時代の変化は、いつのまにかわたしたちをバラバラに孤立させました。
それからまた時代は変わり、バブルから一気に転がり落ちた野心の抜け殻に閉じこもり、もうやってくることはなさそうな経済成長を無理やり起こそうと政治家は躍起になっています。「一億総活躍」という掛け声のもと、多くの人々がまだ高度経済成長の幻影を忘れられないまま底のない泥沼に足をすくわれている今、ふたたび山本周五郎の小説や生き方によりどころを求める人たちが増え、再び一大ブームがやってきたのではないかと思います。
1995年の阪神淡路大震災、オーム真理教、2001年の同時多発テロから始まる世界のテロと紛争、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災と福島原発事故と、世界も日本もつぎつぎと押し寄せる理不尽な事件や事故や紛争が、長い間信じられてきた新自由主義の終焉のみならず資本主義そのものの終焉をも予感させ、わたしたちの孤立は毎年2万人を超える自殺者と6人に1人の子供の貧困に表れています。
そして、戦後71年間、二度と戦争をしないだけでなく、世界のあらゆる紛争を無数の人々の血で洗うのではなく、武器を持たないで解決しようと願う世界の人々の切ない夢をつめこんだ、世界にただひとつ誇れる日本国憲法までもが風前の灯になろうとしています。
こんな時代だからこそ「つながりたい」と熱望し、自分たちで助け合って生きようと決心し、高度経済成長のジェットコースターに乗るために捨ててきた文化や価値観を見直そうとするとき、そして竹中労が叫び宇多田ヒカルが歌う「自由になるための自由」を取り戻そうとするとき、山本周五郎がいてくれたこと、山本周五郎の小説が残っていることは、わたしたちの宝物です。

そして、時代やジャンルがちがいはあっても島津亜矢もまた心優しく凛とした「おしず」のようにかけがえのない存在で、一部のファンに知られるだけの歌手ではなく、大衆芸能を越えた時代の旗手としてひとびとの心の支えとなる使命を持った歌手に間違いないと思います。
わたしは島津亜矢がJポップや海外のポップス、ジャズ、ブルース、R&Bと何を歌ってもそのジャンルのトップシンガーになる才能を持っていることを信じてやみません。
しかしながら一方で、彼女が歌う演歌には山本周五郎や長谷川伸など、戦後の資本主義が捨ててきた人情を次の時代に届けるすばらしい使命をもっていると思うのです。

今回の座長公演の新作もまた山本周五郎の短編小説「野分」が原作の「お紋の風」です。脚本・演出は「おしずの恋」の 六車俊治氏で、島津亜矢を役者として大きく成長させた功労者だと思います。この人は島津亜矢の生き方、その矜持に山本周五郎の小説の世界を見ている人で、今度の芝居でも単なる人情ものではない奥行きのある小説を脚本・演出し、必ずやひとりの人間として、ひとりの女性としての島津亜矢の魅力のすべてを引き出してくれることでしょう。

「私は自分が見たもの、現実に感じることのできるもの以外は(殆んど)書かないし、英雄、豪傑、権力者の類にはまったく関心がない。人間の人間らしさ、人間同士の共感といったものを、満足やよろこびのなかよりも、貧困や病苦や失意や、絶望のなかに、より強く私は感じることができる。『古風』であるかどうかは知らないが、ここには読者の身辺にすぐみいだせる人たちの、生きる苦しみや悲しみや、そうして、ささやかではあるが、深いよろこびが、さぐり出されている筈である」
山本周五郎(「将監さまの細みち」に寄せて)

島津亜矢 新歌舞伎座公演「お紋の風」” に対して1件のコメントがあります。

  1. 名無し より:

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    豊橋コンサートの注意、上沼、千春の
    件皆、亜矢姫潰しですよ、

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